コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

24歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

NEET IS MURDER(ニートは殺人)

明日から働くことになった。今日がニート最終日。いちおう。

七つの大罪でいうところの怠惰を体現してきたような一年だった。「セブン」だったら一年間ベッドに括りつけられて衰弱死させられてもおかしくなかった。

長い時間をかけて波と砂浜に割れたガラスの破片がゆっくりと磨かれるみたいに、ニート生活を経てちょっとずつ俺のメンタルがすり減っていった気がする。

働いていた時のメンタルの削られ具合がプロレスラーの林檎潰しくらいだったので、消耗の度合いとか瞬間最大風速で言うとマシであったと思うが、結局どんなふうに生きてみても大人になればこんなもんなんだろう。

すり減らすべき自意識が過剰すぎる。どんなに落ちぶれてもまだ自分にへらへらと期待できるのは、たぶん本当に俺がバカだからなんだと思う。

死ぬほど働きたくない。

どんな風に生きていても、こういう境遇になっていたんだろうか。今まで出会ってきた知り合いの中にニートは一人もいない。つまり、俺は今まで知り合った人全員より社会性が足りてないということなんだろうか。ダメ人間一等賞なんだろうか。

明日から働くのになんで、もろもろの準備を後に回してブログを書いてしまうんだろう。8月31日に呑気こいて昼間漫画読んで夜に泣きながら宿題をやる小学生のマインドから一歩たりとも進歩していない。

人より生きる気が足りない。

働いてる人すべてが超人に思える。そして、自分も明日からそうならないといけないのに、無理だ。また、何もかもが台無しになってしまう気がする。というかそうなるんだ。人生なんて。

暇だったので、家にある教育関係の本を読んでいると、俺のパーソナリティー形成の問題に大きく関わっているかもしれない記述を見つけた。

賢明なる読者諸君は、「愛着障害」という言葉をご存じだろうか。

俺も本でちょろっと読んだだけで、得意げに語るほどの知識は持っていないんだけど、ひらたく説明すると幼児期の親の育て方や養育環境のせいで身近な人との愛着(結びつき)が十分に形成されないことによって、大人になったときに様々な問題が生じることがあるらしいのだ。例えば抑圧的であったり過干渉な親の元で幼児期を過ごすとそういうった問題が後になって現れやすくなって色々大変だよ。ってこと。

身近な人との愛着がちゃんと作られないまま大人になると、自分の価値の拠り所を他人に求めるような不安定な精神状態を抱えることになる。それを「不安型愛着障害」と呼ぶそうなのですが、これは自分もちょっと分かる気がする。

常に周囲に気を使い、機嫌を伺ったり馬鹿丁寧に対応したり、迎合したり、不当な要求にも従ってしまうことが多いです。少しでも相手が拒絶的な反応を示すと、激しい不安に襲われ、それを容易に払拭できません。自己価値が低く、他者は自分を傷つけたり非難する存在として捉えてしまいます。子どもの頃はいじめられやすい傾向があります。


 身近な人に依存し、その人に自分の存在を保証してもらうことで何とか、自分のアイデンティティを保っています。自分が気を使っている努力の分だけ相手も自分を重視していると思い込んでいます(もちろん、そんなことはないので、空回りしてしまう)。

 

分かる気がするんだけどもさあ、一般論でいうと親との関係が100%良好な家庭なんてそっちの方が超レアだよな。誰でも大なり小なり「こんな親いやだな」って思いはあって当然なはずだ。程度の差はあれ。俺に当てはまるとしたら世の中のほとんどの人もそうじゃないとおかしい。

自分の子どものころは両親が喧嘩ばっかりしてるのをよく覚えていて、その時の経験から大声を出すおっさんが死ぬほど怖くなって今も苦手だ。でも、他の家庭と比べてどうかは分からない。総合的に考えるとそこまで夫婦仲は悪くないんじゃないか?二人で旅行とかよく行ってるし。ただ両親とも教師なだけあって、ほかの家庭よりも抑圧的な傾向が強かったのは確か。どんなことにも中途半端が許されない雰囲気。行きたくもないスキーの合宿に連れてかれたり(まあまあ、いじめられた)、めちゃくちゃ滑るの下手だったのに無理やり大会に出させられたりした(転んで棄権した)のは本当に今でもムカついている。実際のところ、家に先生が常に二人もいたらどう考えてもウンザリでしょう。

こんなん言っても、血液型診断や病名探しと同じだな。こんな風な理屈付けも。姉は立派に社会人やってるし。自分が今、ダメな理由に名前をつけてほしいだけだ。親とか育ちのせいにして責任から逃げようとしてるだけなんだよね。しっかりせい。

もし「愛着障害」に興味ある人がいたら 

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

 

を読んでみるのをオススメします。分かりやすくて、タメになります。

 

「生きる気が少ない」とか「しんどい」っていつも俺は癖で言ってしまうんだけど、「生きる気の少なさ」とか「しんどさ」をぶっ飛ばしてくれる「誰か」と出会いたくて、でもなかなかそれが難しいんだよ。結局、本当の本当に他人任せだし、いつもそれで勝手に舞い上がったり落ち込んだり死にたくなったりするから。こういう極端な人間観もちょっとずつ捨てて最初から他人に期待しすぎない方がいいのかも。

 

話は変わりすぎるくらいに変わるけど、古着屋で久しぶりに服を買った。

フレッドペリーのトラックジャケット…とカッコよく言いたいが実際はジャージ。

俺が着るとジャージなんだ。イギリスが舞台の映画を見るとちょっとガラの悪そうな若者がアディダスやらフレッドペリーのトラックジャケットをスタイリッシュな感じに着こなしていて、ジャージかっけえて思ってた。(「キングスマン」の主人公の友達か不良オヤジのグループの誰かがフレペのジャージ着ていた。うろ覚え)そういう感じに憧れて買ったのに俺が着ると見るからに「THE ジャージ」な仕上がりで笑うほかない。デザインの問題なのか、俺の体型の問題なのか。雰囲気がもうマラソン大会の中学生。

 

俺は今までジャージを私服として着たことはなくて、それはなぜかというと、いくらジャージにこだわりを持って着たとしても一見して「だらしない奴」と見なされるリスクを負うのが怖かったから。

でも、よくよく考えると「だらしない奴」に見られて困るのは「本当はだらしなくない奴」だけなんだ。俺はどっからどう判断しても内面も「だらしない奴」だから見た目で「だらしない奴」と判断されたとしても一向に構わない。むしろセルフプロデュースとしてかなり有効ではあるまいか。ファッションで自分の人となりを一発で印象付けることができるならば。もっと「だらしなさ」を推してこう。

それと、似合ってるかどうかは置いといて、自分の憧れていた服を手に入れるのは気分がいい。テンションを高めてくれる。誰かに会いたくなる。ものすごく前向きな気持ちを与えてくれるものだ。たとえそれがジャージであったとしても。はやくジャージの似合う男になりたい。

 

(フレッドペリー) FRED PERRY ジャケット FUNNEL NECK TRACK JACKET SY6231 266 266CARBON BLUE 2-3

(フレッドペリー) FRED PERRY ジャケット FUNNEL NECK TRACK JACKET SY6231 266 266CARBON BLUE 2-3