コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

ニートがニートやめることになった話

 舞城王太郎の『深夜百太郎』という作品があって、舞城王太郎が2015年5月24日から8月31日の間にTwitterに毎日一話ずつ投稿した怪談を百話まとめたものが本になっている。舞城王太郎のファンを自称しているくせに、なぜか今の今までスルーしていたけど、ニートだし夏だし暇だから小説の感想を、その本の発表形式に倣って毎日一話ずつTwitterに感想を投稿しようかなと思い立ったのが今から約90日前の6月のことだった。その頃の俺には、100日後の自分にどんな未来が待ち受けているかなんて予想もつかなかった。「そんな先のことなど分からない」はハンフリー・ボガートの台詞で、「まして未来のことなど僕にわかるはずもない」は山下達郎の曲の歌詞ですね。未来のことが誰にもわからないのは当たり前で、俺の日々の生活態度のシド・ヴィシャスもかくやという無軌道っぷりはまさにパンク。ナンシーはいないけど。公務員試験を控えていたら、「受かってたらいいなあ」とは思っていたが、人より色んなことを過剰に不安がるくせに、具体的に人生をより良くするために行動しようとかそういう風にはならないからニートなんだよ。

 

 『深夜百太郎』は明らかに百物語を下敷きにして書かれている作品で、俺は日本文学科だったのに全然真面目に授業を受けてなかったので、百物語がなんなのかは一般知識レベルでしか知りません。物語の百話目を語り終わると何か恐ろしいものが現れるという。そういう認識。せっかくだから『深夜百太郎』を読み終えたら、自分で百一話目の怪談を書いてみてこのブログで発表してみようかなどと、うっすら考えていたけど、この本の怖がらせ方のパターンが多様すぎて俺にはとても無理だと思ったのと、公務員試験に落ちたショックでなにも考えられなくなってしまったので、頓挫いたしました。そして、九十数話を読み終えた今において俺はやはり百物語とは何らかの力を持っているんじゃないかと考えるようになりました。百話目の後に何か恐ろしいものが現実になる。こういうことが実際に起こりうるのではないか。ニートにとって一番恐ろしいものは<生活といううすのろ>に他ならないわけです。現実社会のあらゆるもの、あらゆる他人が俺という人間の綿菓子のようなハートを、うんざりさせたり、不安にさせたり、脅してきたりしてくるので、就職をしない、社会に参加しないという逃げの一手でもって平穏を保ってきたのに、ついにそれが破られようとしている。俺はとうとう就職することになったのです。就職を。

 

 働くことになったといっても、ごく短期間なのでそこまで大した話ではないですけど。こういうのは就職というカテゴリーでいいのかな。とにかく期間限定でニートという肩書を捨てることになりました。なにをして働くのかというと聖職者つまりエクソシストですね。ひょんなことからイノセンスに適合したので哀れなアクマに魂の救済を施すことになって首が180度回る女の子と戦ったり…という冗談は置いといて聖職者は聖職者でも、「生徒はミカンじゃないんです」とか言ったりする方。ここにきて悪い冗談だと思う。俺の人生のストーリーライターがコカインに手を出したとしか思えない。考えてみてほしいんですけど、子どもたちを教え、導き、啓蒙する、そういう高尚な職業の人が会社員をたった数ヶ月で放り出したニートであってはいけないでしょう。どう考えても。誰だってそう思う。俺もそう思う。というか公務員試験に落ちてる、自分の設定した目標に全く届かないでこの先の未来が見えない状態のやつがいったい何を教えられるんだって話だ。「夢はかなう」「毎日コツコツがんばれ」とか夢破れて毎日怠けていた俺に言う資格ない。

 

 でも、決まってしまったからには全力を出してやるしかないと思いました。たとえニートでも雇っていただいたからには血反吐吐くまで走りこんで血便出るまで素振りしますよそりゃ。お金をもらうのですから、それなりの仕事を果たさないと「何しに来たんだお前」って言われてしまう。俺の中の全てのめんどくささを封じ込め押さえつけて、頑張らなくてはダメなのだ。乗り越えられる気がしない。生きることがずっと不安で、しんどい。今までそういう気持ちを常に持ち続けてきた。前向きに生きるためのエネルギーが人よりちょっと少ない。それでも、ちゃんとした生活するためには何かをして生きていかないといけなくて、何もなかった俺に役割を与えてくれる場所があるなら、もう一度だけそこで頑張ってみようと思った。でも、本当に不安でしょうがない。

 

 このブログを続けていた理由は、1人でニートやっているのがさみしくて暇だったというそれだけの理由だったけど。これからは多分忙しくなったり、色んな人と出会うことになると思う。「孤独なニートが好き勝手に不平不満を言う」というブログのコンセプトが、根本から崩壊してしまう。今までの抽象的な不安よりは、労働という具体的な負担がのしかかってくる。そうなると、良くも悪くも今まで通りの俺ではいられないし、そもそもブログを書く暇もないか。あまりに自分の身の回りの環境が目まぐるしく変わるので、まだ働いてないけど心が重くて死にそう。公務員試験に落ちたその翌月になんで働くことになったんだろう。いきなりすぎる。よくわからない。

 

 イギリスのピンク・フロイドというプログレのバンドが「あなたがここにいてほしい(Wish you were here)」という曲を歌っていて、それはかつてバンドの中心にいて色々あって脱退してしまったシド・バレットという人物に捧げられたものらしい。

 

つまり、君は天国と地獄の見分けがつくと思ってるんだね、
青空と痛みも。
緑の野原と冷たい鉄のレールは見分けられるかい?
微笑みとベールは?
君は見分けがつくと思っているんだね?

それで彼らに言われて君は
亡霊たちを得るために 英雄たちを手放し
木々を得るために 熱い燃え殻を手放し
涼風を得るために 熱い空気を手放し
変化を得るために   嬉しくもない慰めを手放し
戦いの端役を捨てて 檻の中の主役を取ったんだね? 

  

 ファンでもなんでもないからピンク・フロイドについては詳しくは知らないので、メンバーとシド・バレットの間に何が起きたのかは分からない。けど、そういうメンバーの曲に込めたあれやこれやを知らなくても「いい歌だな」と思う。穏やかなアコースティックギターのバラードで、「かつてそこにいたのに今はいない人」を想う気持ちを淡々と歌い上げる。「ラブソングができるまで」という映画の中で、ヒュー・グラント演じる歌手が「高尚な文学作品なんかよりポップソングの方が多くの人々のことを楽しませてきたんだ」というようなことを述べていて、なるほどと思った。

 俺はピンク・フロイドの「あなたがここにいてほしい」を聴くたびに、自分の人生だとかの「やるせなさ」にひっそりと寄り添ってもらっているような、慰めてもらっているようなそういう気持ちになる。何十年も前の外国の曲がなんでここまでハートを揺さぶるんだろうか。歌詞が普遍的なのにそれでいて、リアルで美しい。

 自分の抱えているどうしようもない空虚な気持ちを分かり合える「あなた」が「ここ」にいないこと。1年間のニート生活でこれほど共感した歌はないよ。本当に。

 

 仕事を始めることになるけども、本当のところはノホホンとした生活がいつまでも続いてほしかった。この一年間は公務員試験に落ちたこと以外はおおむねピースフルにやっていくことができた。ここからは、もうあれだ。<生活といううすのろ>と取っ組み合ってもんどりうって日々を過ごすことになる。扇風機の前に置かれたわらびもちのように震えながら生きていくんだな。少なくとも決められた期間のあいだは。泣きたくなるね。

 

 ブログはどうなるんでしょう。仕事が始まったらどうするか考えます。仕事のこと書くわけにはいかないと思うので、これまで通り漫画とか小説のことなど書くのか、それともまた別の文章を書くことになるのかはまだ決まっていません。それもまた人生なので。

 

「え!?ニートが先生に!?」みたいなブログとか見るからにおもんなさそうだし。