コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

流水大説と舞城王太郎の『九十九十九』について

このブログ読んでる人、限りなく少ないのでネタバレ全開で書かせてもらいます。ネタバレしようがしまいが舞城王太郎の『九十九十九』読んでない人はここに来ないだろう。おそらく。というかネタバレできるほど自分が正確に内容を把握しているかも怪しい。このテーマで書くにあたって去年の年末からJDCシリーズを『コズミック』→『ジョーカー』→『カーニバル・イヴ』→『カーニバル』→『カーニバル・デイ』と地道に読破してきて、ほんと辛かった。半年かかったけどようやくブログ書ける。JDCしか読んでないけどあの『カーニバル・デイ』読んだんだから「流水大説」語ってもいいよね。

 

 舞城王太郎の『九十九十九』初めて読んだのはいつだったかはっきり思い出せないけど高校生くらいだったと思う。表紙のタイトルロゴが遊戯王キラカードみたいでなんとなくダサい講談社ノベルスのあれ。その時は、舞城王太郎を追っててたどり着いたから清涼院流水のJDCシリーズは未読の状態で読んだのだけれど、まー難しい。舞城王太郎の著作の中でも指折りの難解さの作品だからしょうがないけど。グロいし、エロいしなんじゃこりゃって思って読破してからあまり読み返さなかった。JDCの登場人物を借りて書かれた小説って事だったけど、それまで持ってた舞城王太郎のイメージて物凄く自我が強い作家て感じだったから「他人の小説のスピンオフとか似合わんなあ」って勝手に思ってた。俺の知った順番的には舞城王太郎清涼院流水って形なので、JDCシリーズ読んだ後も気持ち的には『九十九十九』が本編て感じがする。

 

 ものっそい時間かけてJDCシリーズ(彩紋家事件以外の)ようやく読み終わった後に、今回こうやって『九十九十九』再読したけど、凄まじい読みやすさ。なんてったってたった600ページだし。一段組みで文字大きいし、て思う時点で完全に『カーニバル』に調教されてるな。一人称だし文体もぶっ飛んでてサクサク読めて「あゝ舞城王太郎...」ってなった。清涼院流水は意図的に『カーニバル』3部作を読みにくく書いてるみたいなんだもの。

「この世界が推理小説だと仮定すれば、わかりやすいかもしれない。これだけ意図的に本物と偽物の入れ替わりを連発されれば、精読している読者でもない限りは、誰が本物で誰が偽物か、整理できなくなる。流し読みしているほとんどの者は、どいつが本物かわからなくなり ―すべての真偽がどうでもよくなることは容易に予想できる。(中略)読書であれば、本を放り出したくなるほどに複雑な状況を敢えて作り出すことで、鋭い思考も麻痺させる。深く理解できないようにするのが狙いであろう」

『カーニバル・デイ』

とかいきなり登場人物が語ってくるからもうお手上げじゃない?読者に読み流される前提で書いてるって作家(これは登場人物のセリフだけど)としてどうなんだ。など思わなくもない。もし作者が一貫して『カーニバル』をこういうスタンスで書いてるならちゃんと隅々まで楽しんでる流水大説のファンはどうすりゃいいの。精読をしないのが意図された読み方だろうけど、逆に真面目に読んでいるファンは入れ替わりの仕掛けに途中で気づいたりするのか。俺はあれを読んだ人の大半と同じように圧倒的な情報の洪水に「おいおいマジか。ついてけねー」って精読を諦めてトリックに騙されたっていうか「もう誰でもいいから早く終わらせてよ」という境地に達したわりと序盤で。まんまと清涼院流水の手のひらの上で踊らされた。

 

 舞城王太郎の『九十九十九』も話の分かりにくさに関してはどっこいどっこいで、構成がマトリョーシカのように区切られたエピソードの一つ一つが入れ子構造になってて…っていうこの説明いらない?読んだことある人にとっては「知ってるよボケ」って感じになりそう。話がが進むたびにそれまでの話が清涼院流水なる人物によって書かれた小説になってそれが現在の話の主人公である九十九十九のもとに届けられるという設定。『九十九十九』自体が作中作として扱われることで現在の章の九十九十九と読んでいる読者がメタ視点を共有することになる。『コズミック』の濁暑院溜水のあれが一話ごとに行われている感じ。それに加えて途中で九十九十九が2回タイムスリップしてエピソードの順番が入れ変わったり、時間を遡った影響で九十九十九のコピーが現れたりして色々錯綜するから難しい。高校生に読んだときはここらへんから「あ、もうワカラン」モード突入して終わった。

 

 とりあえずざっくりどんなお話か整理していく。

第一話

 九十九十九が生まれる。美しすぎる美しさで周りの人を失神させまくる。育ての母親である鈴木君に虐待される。鈴木君が虐待のせいで捕まって西暁町の加藤家に引き取られて育つ。引き取られた家の子どものセシルとセリカに虐待される。セシルとセリカが自分たちの産まれ直し(殺した女性の腹に潜り込んで膣から出てくる)を決行する。九十九十九はその偽装工作に近所の四人家族を殺害してカモフラージュする。殺したはずの死体から年老い九十九十九が出てくる。

第二話

 加藤家を出た九十九十九が梓、泉、ネコという名前の3人の女性と暮らしている中。清涼院流水から「第一話」が届く。謎の焼死事件を解決する。同棲してる3人が同時に妊娠する。数か月後にその3人を殺してお腹の中の子ども(「寛大」「誠実」「正直」と名付ける)を取り出して、また旅に出る。

第三話

 栄美子という女性と「寛大」「誠実」「正直」と暮らす。この話では栄美子がこの三人を三つ子として産んだことになっている。清涼院流水の「第一話」と「第二話」が届く。名古屋で起きた連続首狩り事件を捜査する。犯人の家で殺されそうになるがセシルが助けに来てくれる。なんとか犯人を殺した後に深手を負ったセシルにとどめをさす。清涼院流水に会うために幻影城に行くことを決意する。

第五話

 りえと三つ子と暮らす。お腹の中から講談社ノベルス九十九十九』が出てくる。セシルを殺す。調布の同時火災事件を解決する。隕石が地球に落ちてくる。その影響でワームホールが発生し過去へタイムスリップする。

第四話

 義母と有海と三つ子と暮らす。セリカと共に調布連続美女バラバラ事件を解決する。幻影城にたどり着く。「清涼院流水の世界」の九十九十九と対決する。

第七話

 義母と多香子と三つ子と暮らす。クロスハウスで起きた殺人事件を捜査する。捜査の途中で自分の真の姿を知る。竜巻に巻き込まれて二度目のタイムスリップをする。

第六話

 義母と有紀と三つ子と暮らす。タイムスリップでやってきた二人の九十九十九と出会う。オリジナルの九十九十九を二人目の九十九十九と協力して殺す。義母の正体に気づく。この世界の神の正体に気づく。西暁町に帰ることを決意しつつ家族団らんを楽しむ。

 

 このあらすじ未満のちんけな文をひねり出すためだけに今スターバックスで二時間くらい居座ってしまっている。隣の席の爽やかな大学生カップルが就活の話しながら楽しそうに夏の予定を話し合っていてニート泣きそう。とりあえずほんとにざっくり言うとこういう話なんですな。書き出してみると序盤の九十九十九鬼畜すぎる。これだけじゃなくて義理の弟であるツトムが名探偵「大爆笑カレー」になったり、随所に創世記とヨハネの黙示録の見立てが散りばめられていたり、講談社太田克史が死んだり生き返ったりしてるんですけど、俺の文章力ではうまくまとめられないので勘弁してください。この小説の最大のネタバレしますと、物語のすべてが三つの頭を持った奇形児として産まれた九十九十九が生み出した「妄想プログラム」だったていうことですよ。この「妄想プログラム」を通じて論理的な思考を成長させることにより、いつか九十九十九が妄想から脱出することがあらかじめ設定されている。

 論理的な思考力を鍛えるために妄想の中で殺人事件を解き色々な女の子と付き合う必要があったのだと明かされる。ここは何回読んでも「おお!」と思う。高校生の時に読んだ時は書かれてる話のほとんどが分からなかったけどこの身もふたもない設定に衝撃を受けた。『ドラえもん』が実は植物状態のび太が見てる夢だったっていう都市伝説に近いおぞましさを感じる。「素顔を見ると美しすぎて失神する」が自分の奇形から目をそらすための現実逃避だった、とか原作と真っ向から対立する設定ぶち込むなんて容赦ないな。『カーニバル・デイ』の中でもちらっと「綺麗は汚い、汚いは綺麗」理論で九十九十九の美しさに懐疑的な指摘があったけれど。

 ひょっとしたら、九十九さんは誰よりも「醜い」のかもしれない。単に我々が「美しい」と錯覚させられているだけで、本当は失神してしまうほど醜悪な顔なのかもしれない。

『カーニバル・デイ』

 

 清涼院流水のJDCシリーズを読んだ上で『九十九十九』を今回読みかえしてみて新たに気づいた点などはあんまりない。『コズミック』まで読んでれば、九十九十九というキャラの大体の立ち位置つかめるし。セシルとセリカが「犬神夜叉」「霧華舞衣」を名乗ってるのはJDCシリーズ内で出生の秘密が明かされてないからなんだなと思ったくらい。あんなに苦労して『カーニバル・デイ』まで読んだ意味よ。『九十九十九』がひたすら九十九十九の内面を掘り下げていく話なのに対して、JDCシリーズの中だと九十九十九はあくまで登場人物の一人としてうっすら描かれるだけだから、まったく別ジャンルの話だと思う。九十九十九も『コズミック』から『ジョーカー』『カーニバル』になるにつれどんどん出番減っていってるし…。しまいには死ぬし…。「作者の意図を知ることのできるメタ探偵」という設定自体が舞城王太郎の描きたいものを書くのにちょうどよかったのかな。

 

C 了解です。次は……とまた俺か。『魅惑のミステリア』。千九百枚。疲れた。親殺し子殺しがテーマだから僕のツボなんだけれど辛かった。出だしは面白くて期待したんだけれど、どんどんトンデモ系になってしまう。パニックもののような話もあり、途中でどうでもよくなっちゃう。

D 以前読んだ話も○○○○○○○が犯人だった。

C 今回は聖書の見立て殺人。世界各地でいろんな事件が起こる。で、海王星Dという名前の究極の名探偵が大活躍。

D 前も出たよ。その探偵。あとルンババ12っていうのも出てくるでしょ。

C それだけじゃないぞ。新キャラは、その名も「大爆笑カレー」。インド人じゃないよ。落語家の師匠がつけた名前らしいんだけれど。

D こういう設定を聞くと、某作品の影響を受けてると思うでしょう?ところが、この投稿者の方が先なんだよ。だからこれは某作品の源流?なのかもしれない。

J (立松和平調で)お互い知らないところで流れてたんですねぇ。

 講談社 小説現代メフィスト 原稿募集座談会第15回より

 舞城王太郎メフィスト賞ができる前から講談社に持ち込みしてたっていうのは舞城ファン名乗るからには知っておいてほしい豆知識なのですけど清涼院流水がデビューする前から名探偵勢揃いのトンデモミステリ書いてたってのは超気になる。『煙か土か食い物』以前のボツった小説めっちゃ読みてー。講談社入ったら読めるのか?あと舞城王太郎より清涼院流水の方が年下っていうのは初めて知った。清涼院流水のがデビューだいぶ早いから年下感薄い。もしかしたら第二回メフィスト賞清涼院流水ではなく舞城王太郎だった可能性があったのかもしれない。本人はどう思ってるか分かんないし勝手な想像だけど、「俺のが先に考えてたのに…」とか「俺より年下のくせに」とか「こいつの文章より俺のが上手いのに…」とか思ったりしないのかな。少なくとも俺が舞城王太郎だったら絶対思う。清涼院流水のねちっこい三人称の文体とあのドライブ感あふれる文体って真逆だけど不可能犯罪と名探偵だらけって発想に行きついたの面白いな。まあ、こういう背景もあって一概に舞城作品について「清涼院流水の影響が~」とか言いきれないのが難しいところ。

 

「JDCトリビュート」も俺マジうんざりした。清涼院流水、皆読んでるか? 「JDCトリビュート」書いてくれって頼まれること、ちゃんとリアルに想像してみ?はあ?マジで言ってんの?と俺は思ったよ。

「JDC」なんて結局のところ名探偵がたくさん集まってるだけでどうでもいいし、清涼院流水なんて小狡いだけでくだんないし、まあとにかくちっともモチーフに興味がなかった。でもね、また俺はアホだった。俺の目の前にあった問題は「JDC」でも「清涼院流水」でもなかった。俺が手にしてた俺個人の問題は、これから他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくるっていうもっと大きな、根本的な問題だった。

俺はマジで自信があるからね、俺の「JDC」、「ミステリー」としても「純文」としてもかなりの評価がでないとおかしいと思う。

「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって」愛媛川十三

  上に引用したのは舞城王太郎愛媛川十三名義で書いた評論なんだけど、愛憎入り混じってる感じがかわいいと思う。あの傍若無人な愛媛川先生が言ってるだけで舞城王太郎本人がこう思ってるとは限りませんが。(「龍の歯医者」のコメントとか見るとめっちゃ常識人なのに)「名探偵が集まってるだけでどうでもいい」とか「清涼院流水なんてくだらない」とかぬかしおるよ。よくこれOK出たな。さすが奈津川の三男というほかない。あえてこの愛媛川=舞城だとすると『九十九十九』を書くにあたって持ち込まれたテーマは「他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくる」ことだったから「JDC」の名探偵オンパレードが封印されて逆に九十九十九がひたすら自分と向き合う内向的な作品になったのだと推測される。めっちゃ強引に喩えると『九十九十九』がTV版エヴァ最終話で、『カーニバル』はエヴァ旧劇場版みたいなそういう関係。清涼院流水流のひねった言葉遊び、恐ろしく雑な見立ては『九十九十九』に受け継がれてるけど、基本的に「JDC」はマクロな視点で強烈なブチかまし(『コズミック』でいう密室卿の犯行予告とか)があって「犯人は□□と見せかけて○○と見せかけて△△と見せかけて××……」っていう大量死による見立てとどこまでも追いかけても影の真犯人がいる陰謀論的な世界観だけど、『九十九十九』は正反対に派手な事件が起きていくけどどこまで掘り下げても「自分」しかいないミクロな視点で語られる。「真実は最終的には絶対に手に入らない」からすべての可能性を追うなんて不可能だしキリないよって言って諦めちゃう(これは『ジョーカー』も最終的にはそういうオチだった)し、作中の世界が九十九十九による妄想なので何度も世界ごとやり直して物語られる。そういう意味で言うと清涼院流水の「JDC」が個人を世界のために消費していく物語で、『九十九十九』が世界を個人のために消費していく物語なのかも。

 

 より『九十九十九』の理解を深めたいなら中俣暁生の『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』を読むことをお勧めしたい。先に引用した愛媛川十三名義の評論や舞城王太郎の書き下ろし短編もついてるしお得。本のタイトルになってる評論は「青春小説」と「探偵小説」を結び付けてすごく大きな流れを論じてて興味深い。言ってる事全然分からないけど。とにかくこの人は「青春」という言葉が文学的に「成長」と共に表現されていたのは第一次世界大戦までで、それ以降は成長したとしても「成熟」にたどり着くことができなくなってしまったので「青春が失われた」→「失うものは何もない」→「大人になりたくない」という風に若さの全肯定へと移り変わっていったと指摘している。昔は「大人になりさえすればゴール」だったのが「大人になったとしてもゴール(成熟)にたどり着けない」だったら「いつまでも子供でなにが悪い?」と。だからただ単に子どもが大人へと成長することを描いただけでは「青春」というもの表現し切れなくなったために新しい形の青春小説が生まれたと主張。それがポール・オースター村上春樹を初めとする新世代の作家の生み出した探偵小説の手法を借りた「アンチ青春小説」と呼ぶべきもので、「形式と内容が不可分であり、小説についての定義を内包し、作品自体がそれを実現しているような小説」のことだと言う。それは良質なミステリーのように文章のすべてに小説を成り立たせるための意味を持たせなくてはいけなくて、従来の成長や成熟を前提とした「青春小説」に批判に成立するのが「アンチ青春小説」と呼ばれるジャンルだ。この「アンチ青春小説」は語り部である主人公が探偵役を担って小説を書く動機を解きあかしていく。小説を書いているのは語り部なので犯人も自分、依頼人も自分、探偵も自分、記述者も自分。うまく説明できないのだけど「何故この小説が書かれるべきであったか?」という謎を主人公が解決させていくメタ的な構造を有している。筆者に言わせるとどんな手法で描かれようが「青春小説」自体子どものお遊びにすぎないので早く「鍵のかかった部屋」=「頭蓋骨の内側の部屋」を解体する新しい小説を書いてみては?と提案する。で、最後に作家へ

◎「青春小説」を殺害してください

◎そのとき、探偵小説の手法をもちいてください

 

 という内容の依頼状を突き付けて論が終わる。この評論を受けて舞城王太郎が返事として『僕のお腹中からは多分「金閣寺」が出てくる』という短編を書いてるんだけど、その短編より『九十九十九』のが「アンチ青春小説」してるような。中俣暁生が何をもって「青春小説の殺害」て言っているのかフワッとしててつかみきれなかったんだけど、『九十九十九』自体が自分の脳内からいかに脱出するかをシミュレーションしてて「鍵のかかった部屋」=「頭蓋骨の内側」の解体を目指す作品なのかなと思った。「形式の強度」っていうか最後まで読めばこの小説がなんで複雑な入れ子構造でなければいけないのか明かされて小説自体の仕掛けを主人公が読者と共に発見するっていう仕組み。犯人=探偵=依頼人=記述者の関係がこれ以上ないくらいシンプルに提示される。最後に迫られる選択も要約すると「辛いことが待ってる現実」か「自分にとって都合のいい妄想」どっちかを選ぶのかってそれエヴァTV版やん。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」やん。3人になった九十九十九の内オリジナルが「こんな都合の良い世界ぶっこわして成長しよう。さっさと現実に戻ろう」っていう戦前の「成長すればゴール」=成長第一主義の考え方で、二人目に生まれたほうは「成長して現実に戻ったところでいいことなんて何もないんだからこのままでいようぜ」=成長の先にある成熟を信じない現状肯定による「大人になんかなりたくない」という考え方に沿って行動している。この2人は中俣暁生のいう近代における青春の変遷をそのままなぞってるわけで、最終的に答えを出す3人目の九十九十九はそれを踏まえてどんな答えを出すかというと、「いつか成長しなくてはいけないけど、今この瞬間の世界も受け入れる」っていう見ようによっては優柔不断に思える決断を下す。この決断がたぶんあの時代の「アンチ青春小説」の出した答えの最新版だったのかもしれない。

 

 このラストシーンについては東浩紀が『九十九十九』についての評論で熱いこと言っている。

九十九十九』の最後の段落は「だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる」という文章で始まっている。「この一瞬」の協調は、そこで舞城が問題にしているのが、もはやトゥルーエンド(現実への脱出)でも永遠のゲームプレイ(虚構への自閉)でもないことを示している。三人目の九十九十九が選んだシナリオは、グッドエンドに導かれるかもしれないし、バッドエンドに導かれるかもしれない。しかし彼はすでに、梓でも栄美子でも有海でもりえでも多香子でもなく、有紀を選んでいる。そして、また、たとえ未来において不幸な展開が待っていたとしても、彼がそのシナリオであるとき幸せに包まれたという、その「楽しすぎる」経験は経験として残る。三人目は、現実でも虚構でも、物語でもメタ物語でもなく、その現在の選択の事実だけを信じる。「よく見ろ!目の前のものをよく見ろ!」と彼は叫ぶ。『九十九十九』を締めくくる家族の団欒は、主人公の結論を先送りする消極的な場面としてではなく、そのような積極的な意見表明の場として読み解かなくてはならない。

ゲーム的リアリズムの誕生』 

  一番盛り上がってるところを長々と引用してしまった。

 あのラストは、読んだ人それぞれが勝手に解釈すればいいと思う。俺は愛媛川十三の書いてた「他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくる」っていうその一文が全てかな、と思う。冒頭で「次会ったら絶対殺す」という予言をして実際何回も殺してるのに第七話で殺さなかったり、現実で自分を虐待していた鈴木くんを義母という形で自分の物語に取り込んでいくとかそういう形で「他者を受け入れるか」って問題をなんとか解決していこうとしてたんだよ。だって最初の第一話の段階で九十九十九が本気で心許してたのってツトムくらいしかいなかったんじゃないの。第二話でも普通に恋人もズバズバ殺ってるし。三つ子を育て始めてからようやく「人の命大事にしよ」って感じになっていった。その三つ子も現実において自分がこういう風に愛されたかったって願望の裏返しだと思うと切ないんですが。っていうことを考えながら書いてたら一週間が過ぎました。ひさびさにものを考えすぎて頭が痛い。あと、高校の時に聖書勉強していたので聖書の見立てについてなにか言うことないかな~と思ってたけど、これもなかなかハードルが高いし真面目に授業聞いてなかったのでそもそも聖書のことあんま覚えてなかったので書けません。

 

 ネット上の色々な人がためになる文章をあげていたので、そういうの読んじゃうと今書いている自分の文章の稚拙さに目をそむけたくなる。頭のいい人を引き付ける何かがあるのかね…。3回目にしてようやく九十九十九の増えた仕組みを理解した系の残念な脳みそなんでしょうがない。あと『九十九十九』はミステリ舞城にしては珍しく誰も(実際には)死なない話だよね。そういう意味でも40億人殺す清涼院流水とは真逆。

 

 あと今回読んでもいまだに、加藤順子さん殺したのが誰なのか分からないんですけど~。セシル兄妹なの?九十九十九なの?刀とモノポリー的に九十九十九じゃ無理だと思ってたんだけど、第三話で栄美子が殺したのは九十九十九って言ってて、「は?」てなる。センター試験国語98点マンだからってバカにしないで。

 

crmg.me

 

九十九十九 (講談社文庫)

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「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

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