コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

もし文学部日本文学科卒ニートが清涼院流水の『コズミック』を読んだら

芸術家になれないものが批評家になり、兵士になれないものが密告者になる

 

 センター国語半分切るようなポンコツが3流私大の文学部出たところで、文学的教養が身につくはずもなかった。日本文学科なのに中島敦安部公房国木田独歩谷崎潤一郎泉鏡花田山花袋樋口一葉尾崎紅葉梶井基次郎織田作之助三島由紀夫森鴎外大江健三郎川端康成もまともに読んだことがない。文豪ストレイドッグスウィキペディアから参照しました。つまり文豪ストレイドッグスに出てる文豪の作品をほとんど読んだことがない日本文学科卒ということになる。熱心な文豪ストレイドッグファンのが近代の日本文学読み込んでるのでは?

 なぜ高校までわりと熱心に読書してたのに、大学生になって本を読まなくなったかといいますと、高校までの部屋にこもりきりがちな生活が一変し、東京に通い始めて色々な場所で遊ぶようになったことや、学科の授業が自分の苦手な古典の授業ばかりだったことや、サークルに入ってお酒飲んで騒ぐのが楽しかったから、といった理由が挙げられる。これまでのように孤独を紛らわすための暇つぶしに読書することより人と遊ぶことの方が大事になったのだ。

  本読まなくなったいちばんの理由は1年生の時の「文学演習」かもしれない。その演習の授業で夏目漱石の『それから』について発表した事があって、その時に緊張しすぎて死ぬほどクオリティの低い発表して、それは今思い出しても「うああああ」ってなるくらい嫌な思い出になった。どもりまくる俺。質問に答えられない沈黙。地獄の10分間。つくづく自分はアドリブがきかないタイプの人間でその場で質問されたりするの無理なんだなと思った。コメントペーパーに「意味不明な発表でした」とか書かれた。いくら発表ひどくてもそんなはっきりと心えぐるコメント書く?そのコメント書いた人のこと一発で名前覚えて嫌いになって卒業までずっと根に持ってたけど、3年か4年のときその人はすごい論文書いてなんかの本に掲載されることになったらしい。優秀。でも、人の発表のコメントペーパーに「意味不明な発表でした」とか書くような人間性なのにすごいなって思った。結局、1年生の時の「文学演習」においては不可スレスレの成績を叩き出してしまい、俺はその瞬間に日本文学に対する一切の興味を失った。不可スレスレというか多分本当は不可だったけど必修科目だったから2年生に上げるためにお情けで合格にしてもらったんだと思う。その教授もその一件で嫌いになった。こうやって書き出すと、ちゃんとした発表をできなかった劣等生が逆恨みしてるだけだと思われるかもしれないが、全くその通りだった。

 批評って何?俺には分からない。読書感想文が死ぬほど苦手だった小学校の頃から国語教育に自分とは相容れないものを感じていて、最終的に大学で専攻してみて気づいたけど、俺の本の読み方は教養としてとか学術の対象としてのそれじゃなくて、ひたすら「自分が楽しめるか」の一点しかなくて、趣味の範囲から出ない薄っぺらなものだった。でも、本当に面白い文章に出会った時、その言葉が俺のハートにボディブローかましてくるときに、「この文章に本当に心揺さぶられてるのは世界で俺だけしかいないんじゃないの?」って思ってしまう。太宰治の熱心な読者とかブルーハーツのファンが「この作品(歌詞)は俺のために書かれている」って勘違いしちゃうような自意識過剰マインドかもしれないけど。まだ会社で働いていた頃の土日に家で舞城王太郎の本を読み返していて

生きる時間の長さが、一つの約束を自然と反故にする。

好き好き大好き超愛してる。

という一文を読んだその瞬間から、数分間涙が止まらなくなったことがあった。もちろんこの一文だけがすごいっていうわけじゃなくて全体の流れの中にこの一文があってそれが凄まじい破壊力で泣かされたわけなのだが。舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』読んだ人の中でこの文章に数分間泣いた人はいるのだろうか。泣いたかどうかなんて矢口真理の「ワンピースは1巻につき5回くらい泣ける」発言くらい無意味だけど、そういう感受性が繊細すぎて困っちゃうのアピールしたいわけではなくて。この短い文章がどれだけ俺の心に衝撃を与えたのか、どう説明すれば分かってもらえるのかみたいなことを言いたいんですよ。数分間泣いたことなんてのはその衝撃によって生み出された結果でしかない。自分がどう感動したかなんて俺にはうまく説明できない。答えはきっと心の奥の方にある。たしかにあるのだけど言葉にして取り出すことができない。生まれてから今まで自分の言葉で相手に何かが届いてるって手応えがない。読書感想文や「文学演習」やこのブログを書いていても。好きな小説のどこがどう好きかなんてもっと自由に軽やかに語れたらいいのに。

 「好き」と「詳しい」は全く別物なので、その認識を間違えたものは生涯地を這うことになる。俺は小説を好きだったけど別に詳しくなりたいわけじゃなかったんだと気づいた。その好きな本もごくごく狭い範囲のところにしかなくて、「ザ・日本文学」的なものには惹かれない。萌えない。もちろん中には好きな作家、作品もあるけど、教養だから一応押さえとかないといけないって流れで読みたくもない本を読むのが面倒臭くて、それについてレポートを書くなんて本当に拷問に近いものがあった。ちゃんとした文章が書けないから。だから途中で「もういいや」ってなってしまったので、舞城王太郎が好きという動機で日本文学科に入るのは茨の道だと思った。リアルコーヒーは今すぐ俺を雇ってくれ。俺の勝手なイメージで「好き=詳しい」がまかり通ってる排他的ジャンルの筆頭がSFとミステリで、これについては軽々しく好きとか言いにくい。名作、傑作と呼ばれる作品が多すぎて一通り読んでおかないと語る資格がないような気がしてしまう。日文科にいながら全く日本文学を読まないことでこういう教養マウント合戦の風潮に中指突き立てていたはずなのに、ミステリ、SF界隈にビビってしまうのは、俺の中にも権威主義的な一面が備わっているということの裏返しなのだろうか。

 

 そんなわけで清涼院流水の『コズミック』の話をします。第2回メフィスト賞受賞作。京極夏彦が持ち込みでデビューしてメフィスト賞が生まれ、第1回が森博嗣の『すべてがFになる』で2回目にこんな問題作が賞をとってしまってその後のメフィスト賞の何でもあり感を決定づけた記念すべき作品でもある。京極夏彦森博嗣清涼院流水って当時の講談社の引きの良さすごいな。『コズミック』は高校生の時に舞城王太郎の『九十九十九』というJDCトリビュートを読んで興味を持って1回買って読んだっきりでこの人の作品はもう2度と読むことないだろうと思っていたがJDCシリーズを読破することになって4〜5年ぶりに読み返した。当時この本はミステリ界を大いに騒がせたらしいが、俺の年代的には西尾維新舞城王太郎がトリビュートしてようやく知るくらいの知名度しかなかった。そもそも俺は初ミステリが佐藤友哉だった時点でミステリ偏差値かなり低めなので「こんなんミステリじゃねえ」的なルールや常識には疎かったけど『コズミック』のオチには心底ずっこけた。ここまで読ませた読者にああいう結末を用意するか?そんな風に思って読了後、本棚の奥底に封印した記憶があった。これから書く感想はネタバレを含みます。

 

『コズミック』を再び読んで感じたこと

 

構成の斬新さ

 1200人の殺害予告のFAXが届いた後に延々と密室殺人が起きるのを19パターンも読まないといけないのが斬新だと思った。初めて読んだ時は「いつまで続くのか」と不安に思ったが、読み返す時には覚悟が決まっていたのでわりと「流水先生、各パターン色々書き分けようとしてるんだなあ」と若干余裕を持って楽しむことができた。俺が好きなのはホモのラブホ支配人とそれにケツを狙われているフロントが戦う話です。ケツを巡った血みどろの攻防がなかなかスリリングで興奮した。あとミステリ初心者の俺には「密室」の定義がよく分からない。鍵のかかった部屋のことじゃないの?空中とか初詣の人混みとか閉鎖されてない空間を密室と言っているのが気になった。状況的な意味で誰も出入りできなければ密室ってことなのでしょうか。

 

メタっぽい話

 中盤で前半に読んでいた話が作中人物の書いた小説というのが明かされる部分は結構面白いと思った。しかも作者が「清涼院流水」の反対の「濁暑院溜水」っていうギャグ。自分すら率先して殺していくスタイル。舞城王太郎の方を先に読んでたのでそこまで驚かなかったけど、この19の密室殺人を作中人物がテキストとして共有してあれやこれやと推理をするっていう構造が、あたかも名探偵と一緒になって推理をやっているみたいな感覚がして素敵だなと。作中作と事実の食い違いが指摘されたり新しい推理が披露されるたびにいちいち前に戻って読み返したりしてた。江戸川乱歩とかエラリークイーンの孫とか色んな小説の要素を取り入れてるのもミステリ研っぽいというか二次創作的な発想なのかな。作中に出てくる実在の小説ほとんど読んだことないから流したけどこういった部分は元ネタを読んだことある人のが楽しめるのでしょうね。

 

JDCという設定

 日本探偵協会という大雑把すぎる設定。

これはあまりに少年漫画的というかはっきり言ってジャンプでしょ。ジャンプ。無駄に全員キャラが濃い。名前が変。自分の推理法に必殺技みたいな名前つけてるし。むやみやたらに探偵が多い割にほとんどのやつがあんまり役に立っていないのも面白い。俺が好きなのは推理と並行して京大ミステリ研と恋模様を繰り広げる天城漂馬。JDC所属してる中でメタ推理ができる3人のうちの1人っていうのが少年漫画っぽくて燃える。元カノのことを引きずってる情けないやつなのでつい感情移入をしてしまった。川をずっと張り込みしてただけだけど。後半九十九十九が真相に気づいたあたりで周りの探偵もどんどん真相に気づいてく展開があったけど、もう既に他のやつが解いちゃったなら手遅れだろ!と思ってしまった。でも探偵なら自力で解くことが大事なのかな。JDCにいらない探偵たくさんいる気がするんですけど、みんなで集まって「ああでもない」「こうでもない」と推理をするパートが『コズミック』の面白さの中核を担っている気がするからいいのか。

 

言葉遊びのしつこさ

 とにかく量が多い。殺された19人の名前をこじつける竜宮城之介のあのシーンは馬鹿馬鹿しすぎて逆にかっこよかった。暗号解読ってああいうことじゃないと思うんだけどっていうツッコミをしたくなったけどグッとこらえた。ここまでしつこく言葉遊びを突き詰めると変なドライブ感が生まれるのな。この言葉遊び要素というか探偵の二つ名とか推理法のネーミングとか西尾維新は絶対参考にしてるよなあ。清涼院流水のおかげでフォロワーの西尾維新舞城王太郎が世に出たと考えると、こういう誰もいない荒野をひた走って道を作ってくれた偉大な先駆者だとは思う。あ、でも舞城王太郎は清涼院より先にこういう探偵がたくさん出てくる破茶滅茶系のミステリ書いてたんだっけ?

 

トリックのしょうもなさ

 壁にぶん投げはしないけどやはりムカついた。九十九十九が喋る前に「続きはCMの後で」みたいなタイミングで作者が読者への挑発状を挿入してきて「流水てめえ、この野郎」と本気で思った。そしてあの犯人であのトリックでしょ。もうねはっきり言って凡人にはついていけないです、流水大説には。そりゃ確かにプロローグで示唆してたけれど。予想を裏切られたけど裏切られすぎて、悔しいとかこれっぽっちも思えない。でも、密室の謎自体が動機でそれを見破ったことで目的が瓦解するっていうのは、それまで密室の謎に期待してた読者の俺が受けた喪失感と重なって切ない。解かれることない密室があれだけ想像力を掻き立てるのに開かれた密室の味気ないこと。真犯人の真犯人の真犯人の〜って最後まで気を引こうとするサービス精神も無駄にプロ根性を感じた。密室への愛とミステリ研の悪ノリをここまで壮大にまとめあげた清涼院流水先生は未遂に終わった密室卿事件とは逆に日本ミステリ史に永遠に残るような爪痕を残したと考えるとドラマチックすぎる。

 

 

ここらでこの毒書完走文を終えたいと思います。(あまり上手くない)