コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

舞城王太郎について語るときニートの語ること

 もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことをしゃべりたいんだな。

 

 神奈川県の片隅にオンギャと生を受けた俺はぱっつぱつの育ちすぎたジャガイモのような3800グラムの巨大児だった。生まれた時の体重が人より比較的重いのってどこか恥ずかしい気分になる。両親が共働きだったせいで保育園に迎えに来てもらうの一番遅い系ベイビーだった俺は、友達みんなが帰ってしまった後のひとりぼっちの保育園で有り余る時間を何に費やしていたかというと保育士さんとマンツーマンで遊ぶ社交性などは持ち合わせていなかったので、主に絵本を読むことで退屈をしのいでいて、俺にとっての読書というものの原体験はそこで培われた。おかげで、俺は戦隊ヒーローや仮面ライダーウルトラマン、働くクルマ、電車なんかにほとんど興味を示さないような子供になって、そういうのにハマらなかったのは人生にとって損なのか得なのかよくわからない。

 

 ある日、父親が情操教育の一環としてなのか知らないが小学校に上がる前の俺と姉に一冊ずつ絵本を買ってきてくれたことがあった。三つ上の姉には『黒ねこのおきゃくさま』なるハートウォーミングかつピースフルな超傑作絵本を買ってきていたのに、俺には『ウラパン・オコサ』っつう「1がウラパン、2がオコサ~」なんて言ってひたすら動物の数を数えることに終始する「ヤマなしオチなしイミなし」のナンセンスでアホ丸出しの絵本をプレゼントされてあまりの屈辱に泣きながらガチ切れしたという思い出が俺の中にある。姉よりも三歳下ではあったけれど、「泣いた赤鬼」で一晩号泣できるほど情緒にあふれる子供だったのによりによってあんなストーリーのない絵本選ぶかね?親が俺に選んだのが見るからに子ども向けの『ウラパン・オコサ』で、でも俺は『黒ねこのおきゃくさま』のほうに興味を惹かれるし、ストーリーを楽しむことができるという自負を持っていたため、他ならぬ親に自分の読解力や感性を軽んじられてプライドがズタズタに傷ついた。それが「物語」に目覚めるきっかけになったのではないかと思う。ついでに『ウラパン・オコサ』のせいで算数嫌いになってしまった。あの絵本まじなんなの。

 

 小学校あがって2年生くらいになって父親が星新一の『ボッコちゃん』を買ってきてくれて、それは先の一件を許してやらんこともないぞってくらい面白くて一気に星先生のショートショートの虜になっていく。次は次は次はって催促しているうちに活字だけの本をいろいろ買ってもらうようになった。新潮文庫で出てる星新一のめぼしいショートショート集はあらかた読んだ気がする今だから思うけど、言うほど『ボッコちゃん』て入門編じゃないよね?オチのほろ苦い味わいやテーマ的に中級者向けって感じだから最初の一冊に読むなら『ようこそ地球さん』とか『未来いそっぷ』とか『宇宙のあいさつ』みたいな明るくてオチが分かりやすいのから入った方がいいんじゃないと思うがどうだろう。出版社の執拗な『ボッコちゃん』推しの流れにモノ申したい。それからショートショート派生で阿刀田高筒井康隆小松左京フレドリック・ブラウンに手を出してみるもやっぱショートショートなら星新一が至高だと気づいて回帰する。でも『ショートショートの広場』っていう星新一が選考してるアマチュアショートショートのコンクールの本はめちゃくちゃレベル高くて面白かった覚えがある。それと並行して学校の図書室や友達から借りたりしながら海外のファンタジー小説系を攻めていって『ハリー・ポッター』『ダレン・シャン』『バーティミアス』『デルトラ・クエスト』『ドラゴン・ラージャ』『クラバート』『星の王子さま』『銀河ヒッチハイクガイド』あたりを読んだ。

 

 中学生になっていよいよ思春期になると、エロい小説を探すために毎週近くの図書館へと通うという、ひたすら不純で不毛な追求をわりと律儀に続けた。アホだった。この頃読んだ本は今はもうほとんど忘れてて印象に残ってるのは村上春樹の『ノルウェイの森』、花村萬月の『♂♀』、重松清の『疾走』、町井登志夫今池電波聖ゴミマリア』、小林恭二『モンスターフルーツの熟れる時』、筒井康隆の『魚籃観音記』佐藤友哉フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』などか。この時点でもう文学的な趣味じゃなくなってんな俺の読書。中学生時代は学校の図書館で毎日なんか借りて土日になったら図書館行くってルーティンで人生の中で1番本を読んだ時期だと思う。ただそんな毎日大量に何読んでいたのかという点においては記憶がぼんやりしてて適当に手に取った本を手当たり次第に読みふける本当に「暇つぶし」の読書をしていた。こんなことなら読書日記とかつけておけばよかった。本を読んでも国語の成績が全く上がらず、むしろ中学2年で全体的に成績がギュンと下がってしまい第一志望の公立の高校に落ちた。

 

  勘が鋭い人は気づいただろうけど、この中学の時点で佐藤友哉鏡家サーガにまずハマってそっからメフィスト賞経由で舞城王太郎に行き着いたのだ。メフィスト賞っていうのは講談社メフィストという雑誌の賞で、かの有名な清涼院流水森博嗣西尾維新などを輩出した大変に由緒ある賞で舞城王太郎もそれを受賞してデビューした。図書館の片隅で見つけて最初に読んだ舞城王太郎作品はデビュー作の『煙か土か食い物』だったと思うけど文体が斬新だなと思ったくらいでそんな心に響かなかった。所々出てくる英語若干スベってないかとか、やたら他の小説から引用すんなーとか、どういう発想だよこの推理とかそんなことを思ったくらいで特に面白いとは感じなくて個性強い変な小説家ってイメージで固まってた。最初に読んだ中学生の時は。

 

 舞城王太郎にいつハマったのかというと高校生になってからで、これは完全にタイミングの問題であると思う。高校一年生も時クラス一緒だったオタクの友達にアニメ版と新劇場版の「新世紀エヴァンゲリオン」勧めてもらってDVD借りたのと高校の近くの図書館で『イリヤの空、UFOの夏』を読んで俺にセカイ系ムーブメントが今更ながらやってきた。やってきたのがゼロ年代じゃなくて10年代なのが俺のアンテナの鈍さなのだけれど、とにかくこの2作品は本当に俺の心の1番繊細な部分に重たいボディブローをかましてきた感じがあって、思春期真っ只中にこんなん見たらダメだと思いました。『イリヤの空、UFOの夏』なんて読み終わった後、あまりにも切なくてえもいわれぬ喪失感でいっぱいになって思わず制服のシャツの胸のところギュってしたから。むさい男子高校生が、『イリヤの空、UFOの夏』片手に持って手でシャツの胸のところ抑えてふるふると打ち震えてたんですよ。怖くないですか。

 

 セカイ系の描く自分の死と世界の終わりが地続きになっているような感覚は今まで読んできた普通の「物語」とは全く違う世界の見え方を俺に教えてくれたと思っている。世界の終わりっていうのをじわじわと感じてしまうような現実社会のせいもあると思うけど。サリン事件と震災の年に生まれて、世紀末を生きのびたと思ったら小学校の時にはワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んで、中学生になったらリーマンショックで大人達が右往左往して、高校生になって生まれて初めて女の子とデートする約束をしていた日にあの東北の地震が起きた。もうどうしてくれんのって本当に、いや被災した方にはデートくらいなんだって感じかもしれないけれど。そして2013年にはマヤの予言だかフォトンベルトだかで人類滅亡なんて話もあって、俺はいまいち未来ってものに確かな希望を持てないで育ってきたのかもしれない。そういう自分も世界も不安定だなって時にセカイ系の描く極端で突飛な世界と内省的な主人公の描写は「俺に向けられて書かれたんだ」って電波を受信しちゃうくらい魅力的で、どっぷり首までつかってしまった。描かれているのはハッタリや嘘かもしれないけど、そこんじょそこらの小説が束になってもかなわないくらい感情移入したし、心に残った。

 

 その流れで舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』を読んでこれまた衝撃を受けた。「物語」は何のためにあるんだろう?あの『ウラパン・オコサ』に悔し涙流した日からずっとこれまで本読んできた。いま、ネットで調べるとそれこそ俺なんて足元にも及ばないくらい大量の小説読んでる人が山ほどいて、かなわんと思うけど、本当に大学入るまで俺の周りに本を読む人がいなくてSNSもやってなかったから同好の士も探せず、こんな風に切実に「物語」を求め続ける心性みたいなものの意味がよくわからなかった。他の同級生は小説全然読まないでも毎日もっと楽しそうにしてたのに、なんで本読んでる俺は毎日こんなにしょうもないんだろうか。虚構の物語なんて何の役にも立たない暇つぶしなんだろ結局って思って舐めてた時にエヴァイリヤできれいにワンツー叩き込まれてフィニッシュに『好き好き大好き超愛してる』が脳天にコークスクリュー決めてきた。俺が今まで読みたかったのはこんな小説だったのか。一瞬で消費して3年後には「あれ?どんなストーリーだっけ?」てなるんじゃなくて一生忘れられないくらいハードなパンチライン武装されたとびきり危険な文章。こんな小説書ける作家に他にいないって。特に冒頭2ページは古今東西どこを探してもこれ以上の解答はないってくらいストレートな物語論で打ちのめされると同時に小説でこんなきっぱり言い切っていいの?って思った。「愛=祈り=言葉=物語」 素晴らしすぎる。正しい。

 

  『好き好き大好き超愛してる』読んでから火がついたように舞城王太郎の小説集めて、よっしゃ、この勢いでいっちょ文学部行くかって決意して受験する大学を日本文学科に決めて、相も変わらず国語の勉強ができなさすぎて、センターの国語で200点中98点を取ったりしたけど、なんとか3流私大に滑り込むことができた。ある意味で舞城王太郎のおかげと言えるかもしれない。でも、入学して気づいたけど俺の通ってた大学は古典を専門にしている教授ばかりで、それほど新しい文学やらない所らしくてやってもせいぜい夏目漱石川端康成。文学部って言えばてっきり東浩紀的なことをやると思っていた俺は四年間すごく苦労した。あゝ、また古典の授業?マジで?黄表紙変体仮名言語学…つまらない。いつ村上春樹とか高橋源一郎やるんだろうって思ってたら結局やらずに終わった。ていうかそもそもセンター国語半分切ってる俺に古典やらせる大学にも問題あるでしょう。「源氏物語」で卒論書いてる時に幾度となくおい舞城王太郎!人生返せ!って思ったけど卒業出来たので許す。国語科の教育実習で『好き好き大好き超愛してる』の冒頭2ページをコピーして高校生に読ませるっていう100%自己満足な布教活動もできたし。

 

  今まで生きてきて一度も舞城王太郎ファンに現実で会ったことがなくて日本文学の講義でも名前一回も聞いてないし、舞城王太郎知名度に一抹の不安を覚える。正味な話舞城王太郎の読者ってどこにいるの。話題にならなかっただけで今まで会った人にも読んでる人いたのかもしれないが、読んだ後絶対語りたくなる系の作家なのに語れないこのさみしさ。エヴァQの巨神兵のやつのナレーション書いたり、アニメや漫画の原作やったり、ジョジョのノベライズやったり、短編映画の監督したり、JDCトリビュートやったり、筒井康隆に褒められて三島由紀夫賞取ったり、宮本輝に嫌われて芥川賞4回落ちたり色々やってるのに舞城王太郎好きな人に会ったことない。俺の交友関係の狭さが悪いのだろうか。でも、もし舞城王太郎が新作で村上春樹並みのベストセラー打ち立てて「シン・ゴジラ」「君の名は」みたいになったら今ほどひたむきに応援できるかは微妙だからファン心理はめんどくさい。今月末から始まる「龍の歯医者」の劇場上映一緒に行ってくれる人いません?いや僕ニートなんだけど。

 

 

かずあそびウラパン・オコサ (絵本・こどものひろば)

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黒ねこのおきゃくさま (世界傑作童話シリーズ)

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