コンテンツ化された苦悩

Boy neet Girl (そして人生は続く)

22歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

ニートが『ライ麦畑でつかまえて』を読んだところで

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

 

 世界的な大名作のはずなのに僕の周りでは読んでる人が誰もいなかった。もしかすると読んでる人もいたのに、たまたま話題にのぼらなかっただけかもしれないけど。高校生の時に村上春樹訳を読んでその一年後くらいに野崎訳の「ライ麦畑でつかまえて」を買って、勢いで原著買ってみたけど英語が苦手だったのであっさり放棄。村上春樹訳と野崎訳のどっちじゃなきゃダメとかいう信念は特になく、村上春樹版はハードカバーなので家用、野崎版は外出用的な分担でたまに読み返してたりした。大学に入って友達に無理やり貸したら卒業までそのまま帰ってこなくて、3年くらい野崎訳が行方不明になってしまいうざかった。この前BOOKOFFに行ったら安かったので買いなおして家の本棚みたらいつか買いなおしていたのを忘れていたらしく野崎訳の「ライ麦」が2冊ダブってしまってて、これじゃ2冊を保存用、観賞用に分けて活用できそうだった。

  村上春樹の「ノルウェイの森」で主人公がフィッツジェラルドの「グレートギャツビー」はどのページを読んでも面白いからいつも適当なページ開いて楽しんでます的なことを言ってて僕にとってはそれが「ライ麦畑でつかまえて」だった。最初から最後まで通して読むより気に入った部分を繰り返し読んだり、適当に本を開いて主人公であるホールデン・コールフィールド特有の他のどの小説とも違う独特な語り方に感動していた。どこを読んでも楽しめるというのはこの小説にはほぼストーリーが存在しないからだと思う。小説全体を一言で要約すると、「学校を退学した少年が家に帰るまでの話」で、その要約したら零れ落ちてしまう枝葉を主人公であるホールデン君が全力で語りまくるから、この小説は面白いんじゃないかなと。

 野崎訳はもう30年前くらいの訳なので今の時代にそぐわない古くさい言葉や言い回しもちらほらあるけど、ホールデンの地の文のしゃべりで「~なんだな」っていう表現が繰り返し繰り返し出てくるのはやさぐれた少年っぽくて文章に一定のリズムを刻んでるようで好きなんだな。村上春樹の訳は言葉遣いやセリフはさすがに新しくなってるけど注釈をつけたり傍点を打ったりするのがあまり好みじゃないんだ、実際。

 訳としてどっちが優れてるかは原著の読破を断念した俺には語ることができないけど、タイトルは圧倒的に野崎訳のが良いと思う。原題は村上春樹のほうの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でそのまま訳すと「ライ麦畑のキャッチャー」だ。

 

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね。」

村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」単行本P286-287 

 

この部分から取られたと考えられる。「つかまえて」というのは捕まえる側でなく捕まえられる側の視点なので原題とは正反対で大胆な邦題だと思う。「ライ麦畑から落ちそうな子供」と「キャッチャー」っていうのが何を意味するのかはいろいろ解釈ができそうだけど、ホールデンは自分自身が学校から落ちこぼれて追い出されてしまうような社会に上手く適応できない人間だと自覚していながら、それでも自分より弱くて純粋なこどもたちを守ろうとする優しい人物であるのが分かる。このタイトルはホールデンの気持ちを代弁してるのか、今まさにライ麦畑の崖から落ちそうな子供の一人の気持ちを表してるのかは判断しかねるが、職を2ヶ月で失ったニートのこの俺はライ麦畑の崖から真っ逆さまに転がりおちているようなものだと思う。誰か!俺をキャッチしてくれ。