コンテンツ化された苦悩

Boy neet Girl (そして人生は続く)

22歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

「説教くさいブログはつまらない」という説教

「説教くさいブログ」はつまらないと思う。そんなブログを僕は書きたくない。ということについて説教したい。人のブログを読んでつねづね思うのは文章をネット上に発信する難しさについてである。ブログの文章ってよっぽど表現力や構成力がないとつまらなくなってしまうし、特に「読者にこんなことを思ってもらいたい」みたいな意思や自分の考え方にそれとなく同意を求めるニュアンスが漂う文章は読者にとって押しつけがましい感じがして嫌だなあ。…ってお前こそそうやって書いてる内容を読者に押しつけてるんじゃないの?」ということになってしまうから情報を発信するのはめんどくさい。じゃあ俺は今まで何か価値のある文章を書いてきたのか?いいや、俺が今まで生み出してきたのは日々の生活の中で漏れ出てくる思考の排泄物を記録してるだけだ。ただの排泄物だから特に「読者に役立ててもらおう」とか「感動してもらいたい」みたいなメッセージ性は皆無。だってうんこだもん。

 

俺が考える「価値のある文章」というのはそこにただ「在る」だけというか、人に何もおしつけない超然とした存在だと思う。作者が読者に何かを伝えるのではなくて、文章の中にある意味や思想をくみ取るのはあくまで読者自身であり、その文章を通しておのずと新しい「思考のプロセス」であったり「世界の認識」を獲得できるようなそんな感じ。自分で書いてて混乱してきたのだけど、つまり受動的ではなく能動的に読者が文章と結びつくのが大事なんだ。それゆえに文章に直接自分の感情や主張を表立って盛り込んでしまうと一気に「そんなことあるかよ」って反発したり陳腐になってしまうんじゃないかな。俺がひねくれてるから抽象的な考え方になってしまっただけかもしれないだけど。やっぱ俺は日本的な奥ゆかしい精神性を大事にしたい。そういう「価値のある文章」に出合うためにブログやら本を俺は読んでいるような気がするのだ。自分で書けるようになったらいいんだけどね。

 

俺が獲得した逆説的な心理は「読者に説教で伝えたいことがあるなら説教で伝えてはだめなのだ」ということに尽きる。なぜなら説教というのはこの地球上でもっとも無駄な行為だから。もうね、これはブログだけの話じゃないですよ、本当に。ちっちゃな頃から星の数ほどの説教されてきたけど何一つとして記憶に残ってないから。説教の内容はもう記憶の湖の底で「あん時は説教されてむかついたブー」としか思い出せない。だから俺はなるべく説教とはかけ離れた人生を送りたいと思う。