コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

ニートが教員採用試験を受けてきた話

 私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落付いていられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないという人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩たたきのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真逆様に落されてしまう時があると考えていた。

 坂口安吾「私は海を抱きしめていたい」

 ねえ、悪い冗談みたいじゃありませんか。ろくに外に出れないないような無気力人間でニート。公務員試験の面接でしどろもどろになって結局落ちたこの俺が教員採用試験だなんて。そんなバカな話が。ヒモがティッシュバンジージャンプより無謀な挑戦ですと誰かに止めてもらいたかった。本当に。あれは大学1年生の春、友達に誘われて教職課程をなんとなく履修したら、3年くらいで友達がドロップアウトして、結局俺一人で取ることになった教員免許。日本文学科とかいう社会不適合者養成所で唯一の戦利品ともいえる資格ですけどさあ。死ぬほど、取るのめんどくさかった。そもそも教師という仕事に何の興味もなかった。そういう中途半端なモチベーションで教職課程に進むことがどれほどの苦難か。例えるなら田亀源五郎のSM漫画くらいの苦難。すいません、ちょっと嘘つきました。まず、周りの人の熱意についていけない。みんなしりあがり寿の書く美形キャラみたいな目の輝かせ方して、前のめりというかグイグイ来る感じがいささか暑苦しくて、それを「うわー、やっとんなあ」みたいに内心バカにしながら過ごすのがつらかった。この場合、俺の性格が腐ってんのかな。教職の授業って事あるごとにグループワークとかディスカッションがあってそういう場で話すたびに『ヒストリエ』の「わからない……文化がちがう!」というセリフが頭の中で暴れちまって仕方なかった。もちろん成績も不可スレスレの超低空飛行であった。国語科教育法という授業では、実際に生徒が模擬授業をやって授業のやり方を学ぶんですけど…。それを2回履修しないと教員免許もらえないんで、たしか2年に1回、4年にもう1回受けたんですよ。でも教育実習行った後に受けた4年の方が成績が悪くて「え?俺教育実習に行ったことによって教員としてのアレが退化してるの?というか2年の時は俺、模擬授業をやらなかったのに、なんで模擬授業やった4年の方が成績悪いの?俺の模擬授業が成績下げたくなるほど酷かったってこと?このクオリティの授業で3週間堂々と教壇に立った俺は筋金入りのマザファッカ教師だったってことなの?ねえ?」と教授に詰め寄りたくなったりして、「俺は4年になって模擬授業やらされたのに、2年の模擬授業やらなかった時の成績より悪くなるくらい教師向いてない」という事実を突き付けてくる大学生活であった。だから、4年生の時も就活一本で教員採用試験は受けなかった。(なぜか、大学卒業間際に教育実習に行った母校から「人足りないから非常勤講師やらない?」と誘われたけど内定が決まっていたので断ってしまった。今考えるとそれにOKしていれば入社3ヶ月で会社を辞めてニートをやっている現状はありえなかった。感慨深い。ここでまず人生の選択を誤ったのかもしれない。)

 そもそもなんでニートのくせに教員をやりたくないか、を説明するとするならですね、両親が両方とも教員をやっているからであって、それが全てなんです。子は親の背中を見て育つなんていいますけど、子育てと教育は全く別の領域であって、教師が子育て下手なんてよくある話なんですわ、これが。以前何かの本に「両親が教員をやっている子どもは不登校になりやすい」と書いてあるのを読んだけど、それを見て「ヘウレーカ!」と叫びながら街を走り回りたくなりました。これが真実だとすると、俺の人生の妙な塩梅のツイスト具合は両親の育て方が良くなかったのでは?私立大学まで通わせてくれて育ててくれたのは、感謝してもしきれないが、「両親のような大人になりたい」とはあまり思ったことがない。実際のところ。なにが嫌かは上手く言えないけど。これは俺の家庭のパーソナルな問題であって、両親の職業がどうとかは関係ないのかな?分からない。両親が教員で納豆嫌いで左利きでみずがめ座でB型で、なにが人生に悪いんだろう。教えてほしい。

 仕事を辞めてからニート生活を続けるにあたって親との熾烈なパワーゲームが日夜繰り広げられていた。

 一年間も働かず予備校に通っておいて、もし公務員試験に全部落ちていたら親からの説教は避けがたい。最悪、「就活をしろ」という禁じられたワードが解禁されるかもしれない。思うだけならまだしも、それを言われたら戦争になってしまう。それは絶対に回避したかった。なので公務員試験が終わった後に間髪入れず教員採用試験を受けることは親からの就活しろ攻撃を遅らせると共に、教員をしている両親の自尊心をくすぐる一石二鳥の妙案だったのだ、この選択は。とはいえ、教員採用試験に向けての勉強は一切やってなかったので、せいぜい一次試験で落ちるだろうなと思っていた。

 甘かった。俺の全然発揮するべきではないところで発揮される天才的な冴えを考慮していなかった。一次試験は公務員試験のようなマークシート方式で、教養試験と教科試験に分かれていて、教養の方は公務員試験で勉強していた知識が微妙に使えたのが良かったのかもしれない。それに加え公務員試験の勉強をサボって図書館で大人計画の戯曲とナンシー関のエッセイを読みふけっていたおかげで国語力がついたらしく教科試験も奇跡的になんとかなってしまった。ありがとう、松尾スズキナンシー関

 とまあ、こんな具合でニートが教員採用試験の二次に進むという意味不明なシチュエーションを作りだしてしまった。公務員試験に落ちてヤケクソのメンタルで受けることになった二次試験は個別面接と模擬授業と論文(なぜか一次試験の時に書かされる)らしい。やはり、ここでも立ちはだかったのは面接。俺は気づいた。気づいてしまった。人生は面接が全てなのだと。とりあえず自分のありのままを素直に表現できれば、なんのひっかかりもなく落ちると思ったので、そうした。ありのままというのはつまり緊張でしどろもどろになるということである。中原中也はコネでNHKの面接に行ったとき、履歴書を「詩生活」とだけ書いたせいで落とされたという。俺はそこまでアナーキーにはなれなかったけど、緊張で脳みその調子が著しく悪かったので普通にポンコツであった。俺にとって普通にポンコツというのは普通の人からしたらかなりダメな感じであった。

 模擬授業。模擬授業ってなんだよ。いくつかのテーマを当日発表されて、ほんの僅かな準備時間を与えられその後アドリブで5分授業してくださいみたいな無茶ぶりだった。そんなこと言われても…と言いたくなった。案の定、「英国王のスピーチ」のオープニングの場面みたいになった。

 ニートが教員採用試験を受けてきた話」このタイトルを読んだ瞬間、脳裏によぎる隠しようのない死亡フラグの予感。死神が背後で笑ってる。どうだろう。もう歯が立たない。現実にあるものすべてが俺より強い気がする。どうしようもない。毎日、死ぬほど暇だったけど、ブログを書く気力すら湧いてこなかった。脳みその悪いところをドリルかなんかでトレパネーションしてほしい。たぶんセロトニンの分泌が足りてないんだ。小学校3年か4年生の時、滑って転んで後頭部をしたたか打ちつけて何針か縫った。あの時に脳みそが…脳みそになんかあったんじゃないの!?

 おそらく落ちるものだと思いながら、ちゃんと自分の足で歩いて試験会場に行き、自分の脳みそを総動員して恥をかき、教員採用試験を全うした。結果はともかく。俺は頭がおかしいんだろうか。この期に及んで人生に手を抜いている自分が怖い。こんな事態になるまで、なぜ手を打たなかったのだろう。どうして両親が教員なのにこんな教員向きじゃない人間に育ってしまったんだ。

 おそらく落ちているだろうが、今回の経験をもとにこうしてブログを書くことができた。ニートが教員採用試験で爆死して何が面白いんだろうという気持ちはあるが、この文章を読んだ各々が面白さを見出してほしい。氷山にぶつかって沈没しかかっているタイタニック号の上で演奏を続けていた楽団のような心境でこの文章を書いている。もう「ニートが~をしてみた」系の話はつらい。大体が終わった後の俺に多大なダメージを残す。次に書くとしたら「内臓売ってみた」とか「宗教に救われた」とかそういう話になりそう。

 23歳の夏休み。どこにも行かない。予定がないからね。毎日が昨日と同じところを堂々巡りしている。この夏が永遠に続いてほしい。そんな風に思っていたが昨日から涼しくなってきて、一生で過ごす夏の一回をものすごく無意味に浪費した感じと、サンダルを一回も履かずに夏が折り返しゾーンに突入してしまってもったいない感じがあった。

  教員採用試験を受ける人にとってタメになる記事を書こうと思ったが結局またこういう文章になってしまった。試験の結果は10月に分かるらしい。

 

人生と生活を軽蔑しきることができるのは、少年の特権です。
先生にあわれみをもつがよろしい。薄給の教師に、あわれみを持つがよろしい。先生という種族は、諸君の逢うあらゆる大人のなかで、一等手強くない大人たちなのです。ここをまちがえてはいけない。これから諸君が逢わねばならぬ大人は、最悪の教師の何万倍も手強いのです。
そう思ったら、教師をいたわって、内心バカにしつつ、知識だけは十分に吸いとってやるがよろしい。

三島由紀夫 「不道徳教育講座」

 

 

 

新装版 なるたる(1) (KCデラックス アフタヌーン)
 

 

ニートが公務員試験に落ちた話

 筋肉少女帯の「香菜、頭を良くしてあげよう 」という歌がある。名曲なんて安っぽい褒め言葉を使うのが躊躇われるほど大名曲なので皆さんもご存知だろうが。中学生の時に友達に筋肉少女帯のベストアルバムを借りて聴いてから、ずっと好きな曲で、サブカル男のみっともなさを皮肉っぽく歌ったラブソングである。歌の中で自分のバカさ加減を「犬以下なの」と自嘲する女の子に向かって男はこう呼びかける。

香菜、君の頭僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに君がおびえぬように
香菜、明日 君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を 君に選んであげよう
香菜、いつか恋も終わりが来るのだから
香菜、ひとりででも生きていけるように

 一番良いところを抜き出した。この歌詞が本当に何回聴いてもズシンとくる。聴いたことない人は聴いてください。命令。香菜という女の子に付き合っている男が主人公(こういう言い方で合ってるのか)で、どうにかしてバカな恋人の頭を良くしようと名画座や図書館に連れて行こうとする。「生きることに君がおびえぬように」と。ただ歌詞の全部を読んでも香菜からは「生きることにおびえている」なんて高尚な悩みは読み取るのは難しい。無邪気に笑い、モフモフとジャムパンを食べ、名画座へ行っても途中で寝ちゃうような人だということくらいしか分からない。要はあっけらかんと生きてる脳天気で明るい女の子に「いつか恋も終わる」なんて悲観的な考えをしたネクラな男が自分のサブカル趣味をあれやこれやと押しつけている。そういう歌なのだ。

生きることに君がおびえぬように

 本当のところ、生きることにおびえているのは香菜ではなく他ならぬ男自身なのではないだろうか。泣ける本やカルトな映画を知っていることが「頭を良い」ことだと思い込んでる視野の狭さといい、「〜してあげよう」という謎の上から目線といい、サブカル男の陥りやすい偏った思考回路が良く表現されていると思う。俺も生まれてこのかた人生におびえまくり、映画や本に逃げまくりなのでこの歌に感情移入してしまってしょうがない。聴くたびに心の奥の方を戦車のキャタピラでゴリゴリ踏み潰されてるような気持ちになる。全文化系ボンクラ男のアンセム(ロキノン風に言ってみた)だと思う。

公務員試験に落ちた。これで人生に対するおびえがまた一段と深刻になってしまった。男が泣いていいのは人生に3回っきり。生まれた時、「ガタカ」を見た時、そして公務員試験に落ちた時だけだ。

この前のブログで書いたけど、驚くほど面接に手ごたえがなかったので、気持ち的に諦め半分であったはずなのに、はっきりと不合格という結果を突きつけられるとそれなりにかなしい。当たり前だけど。合格発表のページで自分の受験番号ないのを確認した瞬間、体からエクトプラズム的な何かが抜け落ちていった感覚があった。その時、俺が体重計に乗っていたならきっと21グラム軽くなっていたことだろう。さながら「ハイスコアガール」の3巻ラストに似た絶望。或いは超新星爆発に巻き込まれた巻貝のような気持ち。

落ち込んでる人の書いた文章を読んだことある?本当の本当の本当に落ち込んでる人の。気持ち的には不合格を確認した瞬間がMAXだとすると、少し泣いて一晩寝てこうやってブログに書きながらかなしみは7割くらいに減っている。でも、人生で一番かなしい状態の7割だ。人生で一番というのを軽々しく使うのはアレかもしれないが、初めて付き合ってた女の子にフラれた高校3年生の時と同じくらい落ち込んでる。一年かけてきたことが徒労に終わってしまった。公務員試験はいつも幻のように僕を遠くさらっていくよ。うまくいく公務員試験なんて公務員試験じゃない。公務員試験におちて-Fall in 公務員試験- 。公務員試験は今死んだ。

ボーッとしているとそのまま暗い考えに頭のすべてを支配されてしまいそうになったので「悪魔のいけにえ」をTSUTAYAで借りてきて、見ました。レザーフェイスにチェーンソーやハンマーでやや調子のり気味の若者がバッタバッタと殺されるのを見ながら「これよりはマシ、これよりはマシ…」と思いながら現実逃避。この発想が既に陰キャ。ホラー映画嫌いの俺でも普通に楽しめたのでまごうことなき傑作でした。精神状態にぴったりマッチしていたせいもあるかもしれない。「人生とはかくも不合理で陰惨なものなんだ」という真実を学びました。

それはさておき面接。このシステムがある限り俺は絶対良い方向に向かわない気がする。知らない人と会うのが苦痛すぎる。面接って基本「知らない人と話す」もので、慣れるには「知らない人と話す」経験を積んで練習しなくてはいけないんだと思う。その練習すら怖がってるようじゃ無理だ。かといってそれを補って余りある何かがあるわけでもなし。

イカローリンストーン。マイライフィズピースオブシット。俺の闘いはここからだ。いやもう終わりだよ。頭が良くなりたい。

ああ 気分は死にたい気分だけど

僕は絶対死にたくない……

そこなんだ辛いのは

『東京怪童』望月ミネタロウ

 

生まれたときから分かっていた
人生には今しかないっていうことが
悲しみはいつまでも続くけれど
涙はこぼれるたびに新しい
ぼくにはきみに話してやれる物語がない

目の前の木をみつめるだけで
ふるえるように笑った子どものころ
一日が終わると夢が始まり
そこでは誰もわけもなく生きていた
ぼくにはきみに話してやれる物語がない

いつ死んでもいいと思っているから
ダイヤモンドは雨のしずく
別れのさびしさも映画みたいだ
忘れまいとしても明日はやってくる
ぼくにはきみに話してやれる物語がない

「ダイアモンドは雨のしずく」谷川俊太郎

 

レティクル座妄想

レティクル座妄想

 

 

 

ニートが公務員試験を受けてきた話

どうせ勉強したって、貴方みたいな人には公務員になんてなれないし、貴方みたいなやつが公務員になったとしたら、吐き気がする。底辺野郎。一生バイトしてろ。貴方といるとすごくイライラして疲れる。
私は、公務員の彼氏を作って、幸せな家庭を持って、貴方とは違って幸せな人生を送ります。
貴方にもらったものや借りたものは全て捨てる。削除する。本当に無駄な時間だった。最初から最後まで、本当に嫌いだった。一応キープしてたけど、もー貴方はいらないや笑。面倒。

元カノのLINEより抜粋 

 

俺たちは出来ねえのか。俺たちは出来ねえのか。俺たちは何にも出来ねえのか。

テレビのニュースはよ、テレビのニュースはな、テレビのニュースは毎日俺たちは何にもできないって言う。テレビのニュースはな、何だか分かんねえ、何だか分かんねえ記号ばっか持って俺たちのことを不安にさせたかと思うとな、不安にさせたかと思うと、それが大丈夫ですって言う。つまり俺たちは何にも出来ねえって言われてるみたいな気になる。俺たちは何にも出来ねえって毎日言われてる気になる。何だか分かんねえけど不安になっちまう。無理もねえことだ。だけど俺たちは本当に何も出来ねえのか。色んなやつが言う。何にも出来ねえよって。君たちは何にも出来ねえよって色んなやつが言う。本当に何にも出来ねえのか。出来ることあるんじゃねえかって思ってる。俺は出来ることあんじゃねえかって思ってる。君たちだってあんじゃねえかって思ってる。たかだかロックンロールだって言われても、たかだかロックンロールだよって言われても、俺たちにはロックンロールがあるって本当は思ってる。ロックンロールがあって、音楽があって、なんかやれば何か変わるんじゃねえかって思ってる。少なくとも身近なことは世界は変わるんじゃないかって思ってる。身近な世界が変わればちょっとずつ良い方に向かうんじゃないかって思ってる。良い方に向かってほしいと思ってる。悪い方向に向かってほしいと思うやつなんて誰もいない。良い方に向かってほしいと思ってる。だから俺は出来るって思う。俺は出来るって信じる。君も信じるかい。出来るって信じるかい。やるんだよ。やるんだよ。やるんだよ。ロックンロールをやるんだよ。

 サンボマスターのMCより抜粋

 

 去年の春に会社に入社して夏に仕事を辞めて、その夏の終わりに彼女にフラれて、とにかく去年は嵐のような一年だった。仕事を辞めた翌月に公務員の予備校に通い始めた。なぜ公務員なのかと言うと、就活にうんざりしていたのと彼女が公務員だったから「まあ現役公務員のサポートがあれば受かるっしょ」という味覚障がいのあるパティシエが作ったケーキより甘い想定があったからだった。授業料を一括払いにしたら3か月間仕事をやっていた時に貯まったの貯金が丸々ぶっ飛んだ。これで来年落ちたら本当の本当に将来のアテがなくなる。背水の陣。

 

 恥ずかしい話だが、予備校に入って2ヶ月経った後、彼女にフラれた瞬間から驚くほど勉強に対する意欲がなくなった。もとから勉強は嫌いなタイプ。サボりがち。暇を見つけてはBOOKOFFに行ってしまいがちな俺。彼女は情緒不安定なところもあったがどちらかと言えばしっかり者の人で事あるごとに「真面目に勉強しないとだめだよ」みたいなことを俺に言っていた。言われるたびに心の中で「オイオイ冗談きついぜ。あんたは俺のママじゃないんだぜ」と右から左へ受け流してきた。事あるごとというか顔合わすたびに言われていたので俺は本当にダメ人間に見えていたのではないだろうか。でも彼女も別れる寸前には仕事でかなり精神的に参っていて「公務員大変だな」と思った。

 

 公務員の予備校はやけに授業の時間が長かった。大学の授業と違って、真面目に聞かないといけなかったし。こんなに集中して授業を受けたのは受験生以来だった。3時間も人の話を座って聞くのがこんなに辛いものだったとは知らなかった。始めは週1コマくらいだったのに、2ヶ月も通うと週4日授業があったり、1日2コマになったりそこそこめんどくさかった。授業を受けたあとは「問題集を解いて復習するように」と言われていたが、小学生のころ進研ゼミの赤ペン先生をまったく出さなかった俺がそんなハイソなことをするわけがなかった。予備校のない日は家でずっとゴロゴロしていた。唯一の家の外に出る理由だった彼女もいなくなったのでカスパー・ハウザーか鉄仮面の男かと言わんばかりに外に出なかった。

 

 憲法民法行政法・ミクロ経済・マクロ経済・財政学・政治学・数的処理・文章理解・自然科学・人文科学・行政学社会学経営学・時事…などなど。
なんで公務員てこんなに勉強する科目があるんだろう。配られたレジュメが読んでない教科書が、解いてない問題集が俺の部屋で山を作っていた。もうここまで来ると逆にどの科目から復習に手をつけていいのか全く分からないので、予備校から貰ったものの山が日に日にでっかくなっていくことを見守るしかできなかった。無念だった。30万かけて予備校に通ってここまでやる気が出ないのはおかしい。自分の人生を他人事のように消費している感覚があった。頭の中ではヒゲもじゃのポール・マッカートニーが「あるがままに」と歌っていた。このままではつげ義春の「無能の人」みたいに河原で石を売って生計を立てることになる。そんな気がしていた。

 

 去年はぼんやりと日々を過ごしていたらなんとなく終わって、2018年になった。年が明けて予備校のホームルームで公務員試験の科目について驚愕の真実を知る。「公務員試験て教養科目と専門科目に分かれているのか」と。公務員試験に興味ない人に分かりやすく説明すると「体力測定かと思って行ったらデカスロンだった」或いは「腕相撲大会だと思ってエントリーしたら地下闘技場のバーリトゥード(なんでもあり)の試合だった」くらいのやばさ。やはり現役公務員の彼女を失い、予備校でも特に友達ができなかった俺は情報面で圧倒的な遅れをとっていた。「数的処理・文章理解・自然科学・人文科学」までが教養試験で、それ以外の「~学」とか「~法」というのは専門試験にあたる。どの科目がどれくらい出るのか一切把握していなかったので、俺は今まで全部ちゃんとやらないといけないと思っていた。でも、公務員試験て科目多いけど科目ごとに出題される量に著しくバラつきがある。あと問題の難易度も全然違う。聞いてないよこんなの。たとえば「世界史」と「憲法」と「数的処理」の3科目があるとしたら世界史は1問で憲法は5問で数的処理は20問近くあって「偏ってるなあ」と思った。世界史あんなに範囲広いのに一問しか出ないっておかしいと思いますよ!教養試験の問題の中で最大シェアを誇る数的処理というのは脳トレやIQテストみたいな数字や図形の問題であり、日本文学科だった文系脳の俺をいたく苦しめたILLな科目だった。1問3〜4分で解かないといけないのに30分かけても解き方が分からないこともザラで何度心折られたことだろう。あと専門科目も全部完璧にやらないといけないわけではなく、いくつかある中から数科目を選び出して問題を解くというシステムになっていると知った。だから「どうしても苦手な科目はやらなくてもよい」らしい。全科目を準備しておけば、なんかあった時のために安心ではあるらしいけれどニートは安心より目先の楽を取るに決まっている。(その代わり自分の選んだ科目が本番でものすごく難しかったりした場合などに打つ手がなくなるリスクを負う)そこで授業中に講師が何を言っているのか最初から最後まで分からなかったミクロ経済学マクロ経済学を捨てることにした。「餓狼伝」で言うところの

「全科目に100点をとる必要はない」
「100点満点と闘うなら――――」
「20点ずつを―――――――― 六課目」
「合計120点」
「物理的に勝ちは転がり込む」

 という台詞を思い出した。この台詞は複数の格闘技をそこそこのレベルで習得して、一つの格闘技を極めている格闘家に戦いを挑む村瀬豪三という男の言ったものなんですけど。つまり一極集中ではなく総合力で戦えということ。

 

 やる科目がなんとなく把握できたとはいえ、そこから勉強モードに切り替わったとは言い難く、年が明けてからの俺は清涼院流水のJDCシリーズと格闘していた。JDCシリーズというのはミステリ小説の形をした鈍器兼壁に投げつけてストレスを解消するおしゃれ雑貨のことである。ブログのお題でそれを読むことになって、読破するためにかかりっきりになっていた。これはテスト前に何故か部屋の掃除をやりだしてしまう的な逃避行動の一種だと思う。清涼院流水先生の大説に自分の持てる精神力、忍耐力、読解力、記憶力を総動員して挑んでいた。今となってはあの時間とエネルギーを勉強に充てていたらと後悔しなくもない。読んでなくても勉強してなかったと思うが。

 

 ブログを読み返してみると2018年になっても全然勉強していなかった。3月くらいまではダラダラしていた。2月には女の子に会うために3時間かけて静岡に行ったり、同級生の女の子をエロい2本立てのやっている名画座に連れて行って絶交されたりしている。(その時に貸した岡崎京子の漫画はまだ返ってきていない) 3月になったら血迷って創元社エントリーシートを送って速攻で落ちて凹んだりしていた。この辺から「ボチボチやらないとな」という機運が高まっていったはずだ。2月くらいになると予備校の授業が終わり、3~4月に模試があってそれに向けて勉強することになっていたのだが、俺は数的処理の問題集にやっと取り組み始めたくらいだった気がする。専門科目は一番最初に授業があった憲法だけちゃんと問題集をやっていたが、それ以降は一切手を付けていなかった。(夏休み初日だけアサガオに水をやる小学生の感じ) 結果的に模試の成績は目も当てられないというか普通に半分もいかないくらいだった。論文で100点満点中30点を取ったりした。ブログを書いているのにも関わらず俺の文章力はゴミだった。

 

 「受かりたければ問題集を数回繰り返してやってください」と予備校の講師が言っていたけど、もう試験が1~2ヶ月後にやってくるのにそんなことできるわけがないと思ったので、とりあえず教養の勉強は数的処理しかやらないことに決めた。それと並行して一日一科目ずつ専門の勉強をしよう。俺はそう心に誓った。社会学行政学民法などのWack科目(めんどくさい科目の意)に比べると明らかに範囲が狭いので本当の本当に追い込めば一日でなんとなく復習できるので助かった。民法は範囲広すぎて何度も問題集を燃やしたくなったが清涼院流水の『カーニバル』3部作を読破したおかげで忍耐力や集中力が身に付きなんとか終わらせることができたら良かったけど、そんなことはなく普通に終わらなかった。無理。

 

 そんなこんなでみっともなくジタバタした後で5~6月の試験に挑んだのだった。どの試験においても数的処理が時間内に解き終わらず数問を運否天賦に委ねることとなった。だが、奇跡的に一次試験は3つ受けた内の2つ通っていて安心した。これは完全に運だと思いました。公務員試験は5つの選択肢から1つ選ぶ択一式だったので、運否天賦に委ねた部分がたまたま当たっていたのだろう。ミッション系の高校で毎日讃美歌と主の祈りを捧げていた3年間が功を奏した。

 問題となるのは、2次試験の「面接」である。

 

 正直に言うと、この面接で俺は「終わった」という感触があった。一年間自宅に閉じこもってYoutubeでフリースタイルバトルとバーチャルYoutuberの動画しか見ていなかった社会不適合者に面接試験は大きな壁となって立ちはだかった。面接前は「8mile」のオープニング並みにトイレにこもり自分を奮い立たせ、面接中は「8mile」の最初のバトルのエミネムくらい口ごもった。LOSE MYSELF。なんていうんだろう。m-1の決勝で東京ダイナマイトが刀持ってきたときの空気。面接中ずっと「ベルセルク」の蝕みたいな絶望感があった。地獄の30分。終わってから数時間心臓がばくばく鳴ってた。まっすぐ帰りたくなくて友達を呼びつけて重版前で品薄になっている「呪術廻戦」を探しに行った。3時間かけて本屋を8店舗くらい歩いて回ってようやく手に入れた。友達とバイバイして電車で買ったそれ読んでたら何故か涙があふれて止まらないわけですよ。スーツ着たニートがえぐえぐ泣いてて安っぽいインディーズ映画によくある演技みたいでしたよ。「呪術廻戦」の面白さと、呼べばすぐ来る友のありがたさと、己のふがいなさが心に突き刺さった夜でしたよ。一年ぶりに目上の人と話す緊張感と、人見知り過ぎて予備校の模擬面接に行かなかったのが良くなかったのかな!?とにかく俺の公務員試験が終わった。そんな感じで今は2次の結果を死にそうになりながら待ってるところなのです。

 

 ろくに練習もせずぶっつけ本番で面接に臨めば玉砕するのは目に見えていたのに、どうしても知らない人と会話するのが怖くて模擬面接行けなかった。仮に落ちたとしても100%自分が悪い。「人生が上手くいかない」とかブウブウ不満たれてるけど、能動的に自分の人生を良くしようという気合が湧いてこない。この土壇場でさえ面接の練習をサボってしまう。「どんくらい人はダメになれるのか」のチキンレースをしているのだろうか。こんな人生の大一番でブロガー根性見せなくていいよ。つまんなくていいから面接試験をそつなく無難にこなしたかった。世の中にはたくさんの「一発逆転」の物語があふれている。学年でビリだった女子高生が慶應大学に受かるだとか、オタク青年が電車で痴漢から助けた女の人と付き合うだとか、不良ばっかりの弱小野球部が甲子園に行くだとか、気まぐれにマッチアップされた4回戦ボクサーが全米チャンピオン相手に善戦するだとか、コールガールがハンサムな実業家にプロポーズされるだとか、いじめられっ子がカラテを修行していじめっ子と試合するだとか、貧弱だった青年が超人血清でムキムキになったりだとか、いじめられっ子がクモに咬まれて超能力を身に着けたりだとか、科学者がガンマ線を浴びて緑のモンスターに変身したりだとか、プレイボーイの武器会社社長がテロリストに拉致されてパワードスーツ着て戦うだとか…色々あるじゃないですか色々。

 なのにニートが公務員になる」っていう「一発逆転」は地味なくせに、なかなかどうして手が届かないんです。リアルに難しい。筆記試験通っても面接あるし。安定の職業かもしれないけど、入るまでがギャンブルすぎる。働いていたとき会社で先輩から「お前もお前を育てた親もクズ」とまで言われた俺でも予備校通って一年ダラダラ勉強してれば、筆記はどうやら受かる。でも、面接は厳しい。

 

 このニート生活一年間の総括として、何を思うかといったら「なぜ自分はちゃんとできないのだろうか」と、その一言に尽きる。今はまだ公務員試験の結果を待つことで色んな結論を先延ばしにしているが、受かろうが受かるまいが(というか多分受かってないと思うが)自分の根っこにパンクスピリッツとでも呼ぶべきヤケッパチでノーフューチャーな部分があるというのは問題だ。日々うわの空。できることなら地に足つけてちゃんと税金を納めて生きていきたい。そのために公務員なんていう安定の職業を目指してみたがいかんせんヘタレ。困ってる人に手を差し伸べるどころか、自分の生活すらふわふわしてるのにそんなことできるわけないじゃんね。「ニート」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
 ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分はことし、二十三になります。

 

道半ば あきらめた奴ら
ハード過ぎて箸投げた奴ら
都会に飲まれた奴ら 今じゃ連絡も途絶えた奴ら
今どうしてる? 気になるぜ
夢もって生きてくんねぇ?粋がって
俺の方なら相変わらず
誰も止めらんねぇハイパーな奴

「Street Dreams」 ZEEBRA

 

どれだけクサれば晴れるだろう
止むかよ 時間切れ
まんまと潜りこみ 閉じ込めて
君と最悪の人生を消したい

実験4号theピーズ

 

 

呪術廻戦 1 (ジャンプコミックス)

呪術廻戦 1 (ジャンプコミックス)

 

 

ニートになって一年が過ぎた話

将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。  

カフカ

 去年の梅雨にはいる前くらいに仕事を辞めて、それから一年が過ぎた。

 「貧乏はするもんじゃねえ。味わうもんだ。」というパンチラインを残したのは古今亭志ん生ですけど、俺に言わせれば「ニートはするもんじゃねえ。味わうもんだ」といった感じである。一年間は短いようで長い。その間に俺は、大学の時から付き合っていた彼女に別れを告げられたり、tinderで知り合った知らない女の子と寝てみたり、筋トレを始めてみたり、セブンイレブンの全体に味がついてる系のおにぎり(チャーハンが好き)ばかり食べて生活したり、録画してたワールドトリガーのアニメをなんとなく全話(初回以外。録画し損ねた)見返したり、大学の友達にお酒を奢ってもらったり、赤ピクミンを意味もなく増やしてみたり、8キロ痩せたり、高校の時に同じクラスだった人をエロい映画に誘ってしまって観終わってから疎遠になったり、創元社エントリーシート送って落ちたり、筋トレを辞めてみたり、ニート1周年パーティーを企画してみたけど参加希望の連絡が全然来なかったり、清涼院流水の小説を死にそうになりながら読んだり、家の中でメガネを失くしたり、元彼女が付き合ってた時にプレゼントでくれたラコステのポロシャツの背中の腰のところがリュックサックで擦れてゴワゴワになったりした。

 神に問う。無抵抗は罪なりや?

 『人間失格太宰治

  資本主義社会から脱落した。たまに会うちゃんと仕事続けている友達がすごく偉く見える。見えるというか偉い。立派だ。自分がどんどん社会から取り残されているような気分になる。一年か。会社は3ヶ月も続かなかったのにニートは余裕で続けられた。前陣速攻型のプレイヤーは3日休むと戻すのに1週間かかる。よく言われている「新卒は最低3年辞めるな」ルールを大幅に破ってしまった。その12分の1ですよ。12分の1で合ってる?脳みそあんま使わないせいで計算能力が退化してるので数が数えられません。3ヶ月働いて1年休むってどういうバランス感覚。遠洋漁業の人か俺は。ただ、ひとつ言っておきたいのは、転んだのは一瞬でも怪我が治るのには数日かかるみたいなそういうことってあるでしょう。あるんです。

「君はさっきから、働らかない働らかないと云って、大分僕を攻撃したが、僕は黙っていた。攻撃される通り僕は働らかない積りだから黙っていた」
「何故働かない」
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。」

『それから』夏目漱石

  普通の人だったら辞めなかったんだろうか。俺は普通じゃないくらい使えない新卒だったんだろうか。辞める前に人事に「(OJTしてくれた先輩のいない)違う部署に移してやろうか?」と言われたときになんでそれを断って辞めてしまったんだろう。あと、会社のホームページ辞めたあともちょくちょく見に行ってしてしまうのはニートあるあるなんだろうか。どうやらいまは新卒採用をしていないらしい。おそらく俺のせい。なんでハローワーク行っても職員の方がタメ口使ってくるのが怖くてなんとなく行かなくなったりしてしまうんだろう。心が弱い。働いていたときのこと思い出すと今でも憂鬱な気持ちになる。何だ?このユーウツは!今まさに仕事や日々の生活でしんどい思いをして平坦な戦場をサヴァイヴしている方々。ほんとうのほんとうに心の底から尊敬する。like a プフのオーラ見て戦意消失したノヴみたいな気持ち。なんであんな恐ろしいものに立ち向かっていく勇気があるんだ。会社にいて3ヶ月で心へし折られて立ち向かう気概を完全に失くした俺からしたらゴンとかキルア並みにすごいと思う。不二家のLOOKをささげたい。おいしいから。

 

 産まれた時からか、あるいは小学生のときすっころんで後頭部何針か縫ったときからか、大学生の時に急性アルコール中毒で入院したときからか脳みその調子が悪い。未来のことをあまり考えたくない。親が心配してくる。姉がばりばり働いていて家のトイレでゲロ吐いたり、たまにスターバックスでマンゴーパッションティーフラペチーノを奢ってくれる。おばあちゃんも心配している。家族の中で働いていないの俺だけだから。「ニートやれる家は実家が太い」なんて言うけど、そんなことはないと思う。もうすぐ親が定年で仕事を辞める。朝、みんな忙しいので俺が洗濯物を干す。ZORNというラッパーが曲の中で「洗濯物干すのもHIPHOP」と言っていてその一節に心が救われている。洗濯物を干しながらニュース見てると大学で同い年だったミスコンの人がアナウンサーとして頑張っている。サークルの関係でミスコン候補者と関わる機会があって話したことがあるので「将来、アナウンサーになりたい」と言っていたその人が本当にアナウンサーになっていて感動的。かたや俺はそれを洗濯物を干しながらテレビで見るくらいしか出来んのだ。ラーメンズの「無用途人間」というコントを思い出す。もしかして俺は洗濯物干す用人間だったのか。普通に就職する用人間にはなれなかったよ。家族以外の人とほとんど喋らないせいか対人コミュニケーション能力がますます衰える。脳に悪い。お酒をほとんど飲まなくなる。チャーハン作るのだけがどんどん上手くなっていく。元彼女の飼っていた猫に会いたくなる。LINEでフラれたので猫にお別れのあいさつができなかったのが悲しい。

お前は今腐りかけている
自分でそれがわかるだろう
お前が見たものはみんな
お前を失くすためにある
お前が触ったものはみんな
お前を忘れるためにある

 「華麗なる絶望」三上寛

 久しぶりにとりとめもなく文章を書くと、悪いことに引っ張られて行ってしまう。そんな深刻に落ち込んではいない。精神的にはなんとなくだめだけどバイオリズム的にはノホホンと暮らしている。もうニートニートニート!っていう勢いでだらだらしている。(camera!camera!camera!的な)小学校、中学校、高校、大学と学生生活を送っているとき、「毎日なんでこんなに忙しいんだろう」と不思議だった。授業とかつまらないくせに無駄にたくさんあったし…。毎日行かないといけなかったし。友達がいなければとても行けたもんじゃないな。友達いなかったら不登校になっててもおかしくなかった。社会不適合の気のある自分が大学生までストレートにしゃーって進むことができたのはこの地球上における数少ない奇跡のような気がする。それに引き換えニートってマジで何もしなくていいからね。人生で初めてこんな暇な生活を味わっている。大学の春休みが一年ノンストップで続いてるような時間の持て余し方。うらやましいだろう。毎朝パルム食ってる。普通の人が満員電車で揺られている時間にパルムを食べたことがある?これが格別なんです。

 唯一の難点というのはこれから先の人生をどうしていけばいいのかまったく当てがないということで。こればっかりはあんまり考えていなくて、頭が痛い。日本の新卒一括採用のシステムが生み出してしまった悲しきモンスターが俺。ハロワ行きたくない。

 こういう何のストレスのない日々は心のどこかを確実に鈍らせてる。このnew shit(文章の意)をひねり出すのも一苦労という塩梅だ。というか起きている時間が短いから多くのひとに比べて明らかに「人生を生きている」時間が短い。低血圧気味なので朝起きてから夕方4時くらいまでボンヤリして寝てるんだか、起きてるんだかって状態。さながらバロウズが一日中ヘロインやっていたときくらいのボンヤリさ加減。

 このブログも読んでる人あまりいない。いや更新ほとんどしてないから読まれないのは当たり前だけど。更新してもせいぜい数十人が読んで終わりなので、なんだろう。「親に渡さず捨てられるのが確実な学級通信を書かされる教師」のような心情ですよ。このブログを支えてるものといったら俺のとめどない社会への不満と人間関係の断絶からくる承認欲求の暴走なので、そういう初期衝動が少なくなってきているのか。2ndアルバムで小綺麗にまとまってしまう一発屋バンドみたいになってやしないか。そもそも前に書いていた文章も恥ずかしくて読み返すたびにスターバックスのパッションティーみたいに赤くなってしまうのだけど。

 この記事はブログのネタになるかなーと思って「ニート1周年パーティー」やろうと企画したのに結局、全然参加希望来なくて恥ずかしかった事がきっかけで書かれています。本当に恥ずかしい。キミはどうするつもりだ?このまま僕を見殺しにするのか?キミが感じるままに動けばいいと思う。ただ、誰から頼まれたわけでもないのに、命懸けでパーティーを企画する23歳のニートをキミは無視できるのか?僕だったら無理だ。

 奇しくも今日はプレミアムフライデー。このnew shit(文章の意)を泣きっ面で書き連ねているスターバックスで今、20時になったところ。1人で名画座に行こうと思ったけど最寄りの名画座が改装中でやっていなかったので、近所のコンビニでストロングゼロを買って飲みながら歩いて帰ろうと思う。昼間は死ぬほど暑かったけど暗くなると少し涼しくなって心地よい甘やかな夜。いいよ。どこまでも突っ走ってやる。それが俺にとってのニート1周年のお祝いだから。とにかくパーティを続けよう。これからもずっとずっとその先も このメンツ このやり方 この曲でロックし続けるのさ。

 

あなたが歩くことのできるのがおどろきだ
あなたがごはんを食べているのが
歯をみがくのが私にとっておどろきだ
あなたのふたつの眼から
涙のにじみ出てとまらないのがおどろきだ
あなたは海をみつめて放心している
その顔にかくされた美しさがおどろきだ
そしてもしもあなたが死ねるとしたら・・・・・・
死ねるとしても―
そのことの中に私は
あなたのいのちの輝きを見るだろう
私たちの生きる証しを見るだろう

「やわらかいいのち」谷川俊太郎

 

 

絶望名人カフカの人生論 (新潮文庫)

絶望名人カフカの人生論 (新潮文庫)

 

 

筒井康隆の『聖痕』と『劇場版テレクラキャノンボール2013』について

 筒井康隆の『聖痕』について何か書いてくださいと言われて半年たって、最近ようやく読み終えたので、書きます。お待たせしました。と言いたいが、ブログの需要的にこの話題は正しいのだろうかという一抹の疑問。リクエストあったからそりゃ書きますけど。「リクエストした人だけに届け」的なスタンスで書いて良いのか。俺はいくら時間かかっても頼まれたらやり遂げる性分なので、半年越しでも決して投げ出さないことにしていますよ。クオリティはどうあれ。みんなちゃんと筒井康隆読んでるんですか?俺は全然読んでない。今まで読んだのは『わたしのグランパ』『笑うな』『パプリカ』『天狗の落とし文』『くたばれPTA』くらい。あとは短編集をちらほらと…。『時をかける少女』すらちゃんと読んでないけど、もしかして筒井康隆は教養としておさえとくべきものなのか。文学部だったくせに詳しくないのってギルティですか。舞城王太郎の『阿修羅ガール』を三島由紀夫賞に推した作家っていうのは知ってる。そういえば『旅のラゴス』は何で脈絡もなく突然あんなブームになったんだろうか。清涼院流水のJDCシリーズを読んでいる時にも思ったけど、俺は、どう考えても奇書の類を論じる力量もないし、そもそも普通の感性しか持ち合わせていない。NO!前衛小説、STOP!実験小説。そう言いたい。SFは星新一先生から入ったので、筒井康隆のなにかにつけてドギツイ作風に初めの方は面喰ってしまった。ドギツイ一辺倒かと言えば『睡魔のいる夏』みたいな抒情的な作品も書くし、いよいよ混乱させられる。そういえば星先生のエッセイには筒井康隆とか小松左京とかよく登場して、一昔前のSF作家界隈の内輪な空気がほのぼのと伝わってきて趣深い。詳しくは覚えていないけど「酒を飲まなければ筒井君は作風と反していたってまともな常識人だ」といったことが書いてあった。筒井康隆本人も「自分は常識を分かっているから誰よりも非常識を描くことができるんだ」みたいに言ってた。でも『最高級有機肥料』とか『バブリング創世記』書いてる時点で…「頭おかしい」と思われてもしょうがない気もする。

あらすじ

五歳の葉月貴夫はその美貌ゆえ暴漢に襲われ、性器を切断された。性欲に支配される芸術に興味を持てなくなった彼は、若いころから美食を追い求めることになる。やがて自分が理想とするレストランを作るが、美女のスタッフが集まった店は「背徳の館」と化していく……。巨匠・筒井康隆が古今の日本語の贅を尽して現代を描き未来を予言する、文明批評小説にして数奇極まる「聖人伝」。

  

 筒井康隆で「食」をテーマにした傑作と言えばなんといっても『薬菜飯店』でしょう。おそらくジョジョ4部のトニオさんの元ネタになったであろう、ご飯を食べるたびに体の悪いところが治っていく中華料理屋の話だ。これは出てくる料理もおいしそうで、体の治り方のめちゃくちゃさ加減もイカれていて傑作だった。『最高級有機肥料』も…ある意味グルメ?そういう趣味の人からしたら「おいしそう」とか思うのかな。あとはタイトル忘れたけどほっぺたの内側がカニの甲羅になってそっから蟹味噌が永遠に食べれる!みたいな話もあった。『蟹甲癬』だっけ。人間の原始的な欲求である食とか性について、ここまでふざけて書くの?みたいな際どいとこを攻めてくるというか。読んでいるうちに「偉そうにしてっけどお前らも所詮アニマルなんだよ」みたいに言われてるような気分になる。でも今回の『聖痕』は、主人公が最初の最初で美しさのあまりに変質者に目つけられてズバッと性器を切られてしまって、その性欲の欠落を美食の追及で補っていくみたいな話で、読んだ感じからすると「食」よりも「性」側に重きを置いているのかなと思った。全体的に「男性性の喪失」がテーマなんじゃないでしょうか。

この子は聖人みたいになるのだろうか。どんな一生を送るのだろう。それはまるで犯してもいない罪を贖罪し続けるような生涯なのだろうか。

 前回の『九十九十九』に引き続き主人公が「美しすぎる」って設定がかぶっていて連続で読むと面白かったですよ。でも、その美しすぎるって設定も多分扱い方が二人とも異なっているというか、『聖痕』の方は古典っぽい文語調の語り口で、主人公のやんごとない美しさと相まってなんとなく『源氏物語』の光源氏を連想させる。文章の中の使われてる言葉が古めかしい雅語とか枕詞ばっかでものすごく読みづらい。ページの注釈がセンター試験の古文か『なんとなく、クリスタル』みたいになってる。登場人物が話すときにカギカッコを使って書かない。地の文でも一人称と三人称が混在してて視点が定まらないようなふわふわした感覚。今までに読んだことないような不思議な文体。主人公や周辺の人物の思っていることも喋っていることも同じように淡々と記述されていく。 これについては解説で東浩紀がこう述べている。

一人称と三人称の混淆、時間の錯綜、記憶の混濁、性的な連想に満ちた粘着質の語りといった氏の作品の特徴は、視点を変えてみると、老人のいささか「惚け」の入った世界観そのものだと言うことができる。 

 この解説はものすごくためになる。これさえ読めばもう本当大体「分かった」感じが出ると思う。そもそも文章中の枕詞がほとんど理解できず注釈と本文をシャトルランのように往復していた私には論じる資格もないです。マジで。

 主人公の設定がものすごくフィクション寄りに構築されているけど、それ以外の出来事はオイルショック学生運動バブル崩壊サリン事件、ユニクロの誕生、東日本大震災など全部現実の日本になぞらえている。だから「去勢された光源氏がもし現代の日本に生きていたらどうなるか」のモキュメンタリ―のような小説と言えなくもない。モキュメンタリーって言葉が小説に当てはまるか分からないけど。

 色欲から解き放たれリビドーの呪縛もなくエディプス・コンプレックスとも無縁だったため自分が如何に自由で平和な反省を送ることができたことか。

 これからはやはり、リビドーやコンプレックスの呪縛から脱した高みで論じられる、静かな滅びへと誘い、闘争なき世界へと教え導く哲学や宗教が必要になってるんだろうね。

 それがぼくの贖罪羊(スケープゴート)だったんだよ 

 男目線で読むと性器を刃物で切断されるとかそういうの本当に嫌。切られてから治るまでの怪我の経過の描写もリアルで「やめてくれー」って感じで読んでた。キム・ギドクの映画にもお母さんに息子の息子が切られる映画あったけど、そのシーンがあるらしいのが怖すぎて見てない。「ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリ―インチ」は見た。直接的にそうなるシーンはなかったけどやっぱり怖かった。だってそれ切られたら「男としての人生終わり」なわけじゃないですか。でも『聖痕』の主人公は男性器を失ったことを後悔していないし、むしろ良かったと。余計なお荷物取ってくれてありがとさんくらいのこざっぱりした心で許しちゃうのが新しいと思った。

 

 考えてみると最近のニュースとか、セクハラ問題とか強制わいせつとかそういうのばっかりで、気晴らしにTwitter開けば「始球式にきた女性タレントに男子学生が集団で突進していく」動画、「おっさんが道行く女性に次々に痴漢し始める」動画、「駅をわざと女性に肩がぶつかるように青年が歩く」動画などが転がっていてもうガチで男って気持ち悪いと思う。ニートですら思う。こんな狂ったやつらが闊歩している外になんて出たくないよ。銭湯とかサウナでおっさんに話しかけられるたびにびくっとしてしまう。自意識過剰かもしれないけど。(でも、いきなりサウナでおじさんから「君胸毛なくてきれいだね。なんか処理してる?」とか話しかけられたら身構えません?あの人はホモだったのだろうか。謎だ。)なんかこういう「気持ち悪い男」の話題を目にするたびに男に生まれついて申し訳なく思ってしまうことが多い。家から一歩も外出てないけど。家族以外の異性と数か月話してないけど。

強姦をする側にいて立っている自分をいかに否定しようか (枡野浩一) 

  枡野浩一が短歌で詠んでいるように男って加害者側の性なんだよなと思う。だから同じセクハラ事件見て俺が男であることに申し訳なさを感じたって女性側の憤りや恐怖のが確実に大きいわけで。してもないセクハラ事件を心痛めたり申し訳なく思うのもカフカの言う「根拠の分からぬ罪悪感ほど烈しく魂の中に定着するものはありません。」ってやつなのかもしれん。でも、犯罪じゃなくても今まで付き合ってきた女の子には「男の気持ち悪さ」押しつけてしまったりしたこと多々ある。嫌がってる彼女に「セックスさせて」って頼むのもセクハラ以外の何物でもない。ネットで「○○メンバーが~」とか「セクハラ教師が~」「校長が~」とか訳知り顔で断罪したり面白半分で茶化す男性とかすごいなって。「お前自分がどんな人生を歩んだとしても絶対に性犯罪者にならないって確信持って言えんの?」みたいに思わなくもない。小中学生のころ太っててモテなさ過ぎてめちゃくちゃ人生お先真っ暗みたいな時期があったから、もしその時のマインドから抜け出せず今まで生きていたらかなり危ない奴になっていたんじゃないだろうか俺。女の子と付き合えても、性欲に振り回されっぱなしで死にたくなるようなみっともない真似さらしたりするし。フラれてtinderで遊び相手探したりするし。たった一晩遊ぶためだけで3時間かけて静岡行くし。自分で自分が信用できないですよ。そんなら『聖痕』のようにさばっと切り落としてみい、おんどれ。と思ってしまう。切らないけど。でも主人公の到達した男女の関わりを神の視点で見降ろしているかのような悟りきった境地には憧れちゃう。そんな風になれたらいいのに。もし自分が気持ち悪いセクハラ親父になるくらいだったらそのまえに死にたい。

 

 で、この気持ち悪い自分語りのついでに大学2年生の時に見た『劇場版テレクラキャノンボール2013』について語ろうかなと考えたんですけど、これもあの色々と業が深い作品だなと思います。またサブカルの文脈でちらっと話題になってるので、思い出してせっかくだからなんか言っておこうみたいな貧乏根性。1人で年末のアップリンクに行ってみました。この作品を男が「面白い」と言うにはなにかしらの責任を負わないといけないような気がして。俺は面白いとかいう以前に汚いなと思ってそこで乗り切れなかったんですけど。(途中の「ピンク・フラミンゴ」的な場面とか面白がる以前に生理的に無理!)観終わったあとすごく疲れた。基本的にこの作品て『聖痕』で主人公が失った要素の集合体で構成されてるようなものじゃないですか。「男性性のみっともなさ」の極北というか。「テレクラキャノンボール」を知らない人のためにウィキペディアから抜粋するとこんな感じ。

ルール

ステージは、RUNステージSEXステージに分かれていて、終了時のステージ合計獲得ポイントによって順位が決められる。

RUNステージは、決められた移動区間をオートバイや自動車などで移動し、到着順でポイントが与えられる。SEXステージは、ナンパ、テレクラ、出会い系サイトなどを用いて、各都市で素人女性を制限時間内に撮影し、その行為内容などによってポイントが与えられる。

優勝者には、優勝賞品としたキャノンボールマスコットガールとのSEXの権利と栄誉が与えられる。(ウィキペディア

  このルール見ただけで、女性なら「うわあ...」って感じだと思うんですが、もっと細かいルールがあってですね。「~歳以上ならマイナス何点」「女性の○○を飲めばプラス何点」「女性の××を食べればプラス何点」とかそういった感じなんすよ。レース参加者である監督が勝つためにどこまでみっともなれるか。みたいなそういう男性性のできれば見たくない部分をこれでもか、とばかりに見せてくるわけです。話の見せ方としてはYoutuberがゲテモノ料理を食べて七転八倒して視聴者を笑わせる動画みたいな風に面白おかしい感じでやってるわけなのです。Youtubeでいうゲテモノ料理にあたる部分が生身の女性っていうだけでアレな部分はあると思いますが、監督も最中はものすごく真剣にやっているし、出演してる女性も納得の上なら映画を見た人が一方的に批判できないと思うけども。俺がどうなのと思う部分はこの映画では「男性性のどうしようもないみっともなさ」を「でもこんな変態なことを一生懸命にやりきることのきらめき」みたいな風に反転させて描いちゃってるところ。この映画を支えてるのはサブカル的な「こんなやべえ映画を評価しちゃう少数派の俺」ていう意識じゃなくて純粋に「どうしようもないほどのみっともなさ」を「きらめき」に反転させる瞬間が見たいだけの多数派なんではないのと思う。その点においては他の追随を許さないぐうの音も出ないほどの反転っぷりですよこの映画は。男のみっともなさを身も心も嫌ってほどさらけだしてますから。でもそこを「かっこわるいってかっこいい」みたいな話に回収しちゃうのは...あまりにも安易では。声を大にして言いたいのは今の現実の社会には男性性が生み出す「みっともなさ」「だささ」「下品さ」を「きらめき」に反転させる余地なんてこれっぽっちもないのですよ。虚構と現実の無限の隔たりをちゃんと消費する側は知っておかないといけない。そういう作品を生み出してる人はそこに輝きを持たせることの危険さを知ってほしい。どこにも救われる余地がない男性に都合のいい夢を見せることに責任を持ってください。銀杏BOYZ 神聖かまってちゃん 『宮本から君へ』『ボーイズ・オン・ザ・ラン』『グミ・チョコレート・パイン』『童貞。をプロデュース』(←これはドキュメンタリー的にも色々問題があったけど)『さくらの唄』『太陽の塔』あと穂村弘のエッセイもかなり罪深いぞ。

 

 「みっともなさ」の先には何にもないんです。現実のみっともなさに出口はないですからね。交差点の真ん中にこたつをしいたら逮捕されるんです。『宮本から君へ』のように仕事でシャカリキになって我を通したら結果を出す前に干されます。『ライ麦畑でつかまえて』に憧れたマーク・チャップマンがなにをしましたか。俺は仕事を辞めてニートになって始めて「みっともなさ」が「きらめき」に反転することはないと気がついた。遅すぎる。それまでの俺は物語をぱんぱんに詰めた風船のように地に足がついてなかったから文学部なんていうヤクザな学部に行ってしまったけど、小説読むくらいなら株を勉強した方がなんぼかマシです。ええ。俺の人生の「みっともなさ」なんてのはこんな誰も読まないようなブログに書き殴られて終わりなんです。森見登美彦じゃないけど言いたいですよ「責任者はどこだ」と。

 

 

聖痕 (新潮文庫)

聖痕 (新潮文庫)

 

 

流水大説と舞城王太郎の『九十九十九』について

このブログ読んでる人、限りなく少ないのでネタバレ全開で書かせてもらいます。ネタバレしようがしまいが舞城王太郎の『九十九十九』読んでない人はここに来ないだろう。おそらく。というかネタバレできるほど自分が正確に内容を把握しているかも怪しい。このテーマで書くにあたって去年の年末からJDCシリーズを『コズミック』→『ジョーカー』→『カーニバル・イヴ』→『カーニバル』→『カーニバル・デイ』と地道に読破してきて、ほんと辛かった。半年かかったけどようやくブログ書ける。JDCしか読んでないけどあの『カーニバル・デイ』読んだんだから「流水大説」語ってもいいよね。

 

 舞城王太郎の『九十九十九』初めて読んだのはいつだったかはっきり思い出せないけど高校生くらいだったと思う。表紙のタイトルロゴが遊戯王キラカードみたいでなんとなくダサい講談社ノベルスのあれ。その時は、舞城王太郎を追っててたどり着いたから清涼院流水のJDCシリーズは未読の状態で読んだのだけれど、まー難しい。舞城王太郎の著作の中でも指折りの難解さの作品だからしょうがないけど。グロいし、エロいしなんじゃこりゃって思って読破してからあまり読み返さなかった。JDCの登場人物を借りて書かれた小説って事だったけど、それまで持ってた舞城王太郎のイメージて物凄く自我が強い作家て感じだったから「他人の小説のスピンオフとか似合わんなあ」って勝手に思ってた。俺の知った順番的には舞城王太郎清涼院流水って形なので、JDCシリーズ読んだ後も気持ち的には『九十九十九』が本編て感じがする。

 

 ものっそい時間かけてJDCシリーズ(彩紋家事件以外の)ようやく読み終わった後に、今回こうやって『九十九十九』再読したけど、凄まじい読みやすさ。なんてったってたった600ページだし。一段組みで文字大きいし、て思う時点で完全に『カーニバル』に調教されてるな。一人称だし文体もぶっ飛んでてサクサク読めて「あゝ舞城王太郎...」ってなった。清涼院流水は意図的に『カーニバル』3部作を読みにくく書いてるみたいなんだもの。

「この世界が推理小説だと仮定すれば、わかりやすいかもしれない。これだけ意図的に本物と偽物の入れ替わりを連発されれば、精読している読者でもない限りは、誰が本物で誰が偽物か、整理できなくなる。流し読みしているほとんどの者は、どいつが本物かわからなくなり ―すべての真偽がどうでもよくなることは容易に予想できる。(中略)読書であれば、本を放り出したくなるほどに複雑な状況を敢えて作り出すことで、鋭い思考も麻痺させる。深く理解できないようにするのが狙いであろう」

『カーニバル・デイ』

とかいきなり登場人物が語ってくるからもうお手上げじゃない?読者に読み流される前提で書いてるって作家(これは登場人物のセリフだけど)としてどうなんだ。など思わなくもない。もし作者が一貫して『カーニバル』をこういうスタンスで書いてるならちゃんと隅々まで楽しんでる流水大説のファンはどうすりゃいいの。精読をしないのが意図された読み方だろうけど、逆に真面目に読んでいるファンは入れ替わりの仕掛けに途中で気づいたりするのか。俺はあれを読んだ人の大半と同じように圧倒的な情報の洪水に「おいおいマジか。ついてけねー」って精読を諦めてトリックに騙されたっていうか「もう誰でもいいから早く終わらせてよ」という境地に達したわりと序盤で。まんまと清涼院流水の手のひらの上で踊らされた。

 

 舞城王太郎の『九十九十九』も話の分かりにくさに関してはどっこいどっこいで、構成がマトリョーシカのように区切られたエピソードの一つ一つが入れ子構造になってて…っていうこの説明いらない?読んだことある人にとっては「知ってるよボケ」って感じになりそう。話がが進むたびにそれまでの話が清涼院流水なる人物によって書かれた小説になってそれが現在の話の主人公である九十九十九のもとに届けられるという設定。『九十九十九』自体が作中作として扱われることで現在の章の九十九十九と読んでいる読者がメタ視点を共有することになる。『コズミック』の濁暑院溜水のあれが一話ごとに行われている感じ。それに加えて途中で九十九十九が2回タイムスリップしてエピソードの順番が入れ変わったり、時間を遡った影響で九十九十九のコピーが現れたりして色々錯綜するから難しい。高校生に読んだときはここらへんから「あ、もうワカラン」モード突入して終わった。

 

 とりあえずざっくりどんなお話か整理していく。

第一話

 九十九十九が生まれる。美しすぎる美しさで周りの人を失神させまくる。育ての母親である鈴木君に虐待される。鈴木君が虐待のせいで捕まって西暁町の加藤家に引き取られて育つ。引き取られた家の子どものセシルとセリカに虐待される。セシルとセリカが自分たちの産まれ直し(殺した女性の腹に潜り込んで膣から出てくる)を決行する。九十九十九はその偽装工作に近所の四人家族を殺害してカモフラージュする。殺したはずの死体から年老い九十九十九が出てくる。

第二話

 加藤家を出た九十九十九が梓、泉、ネコという名前の3人の女性と暮らしている中。清涼院流水から「第一話」が届く。謎の焼死事件を解決する。同棲してる3人が同時に妊娠する。数か月後にその3人を殺してお腹の中の子ども(「寛大」「誠実」「正直」と名付ける)を取り出して、また旅に出る。

第三話

 栄美子という女性と「寛大」「誠実」「正直」と暮らす。この話では栄美子がこの三人を三つ子として産んだことになっている。清涼院流水の「第一話」と「第二話」が届く。名古屋で起きた連続首狩り事件を捜査する。犯人の家で殺されそうになるがセシルが助けに来てくれる。なんとか犯人を殺した後に深手を負ったセシルにとどめをさす。清涼院流水に会うために幻影城に行くことを決意する。

第五話

 りえと三つ子と暮らす。お腹の中から講談社ノベルス九十九十九』が出てくる。セシルを殺す。調布の同時火災事件を解決する。隕石が地球に落ちてくる。その影響でワームホールが発生し過去へタイムスリップする。

第四話

 義母と有海と三つ子と暮らす。セリカと共に調布連続美女バラバラ事件を解決する。幻影城にたどり着く。「清涼院流水の世界」の九十九十九と対決する。

第七話

 義母と多香子と三つ子と暮らす。クロスハウスで起きた殺人事件を捜査する。捜査の途中で自分の真の姿を知る。竜巻に巻き込まれて二度目のタイムスリップをする。

第六話

 義母と有紀と三つ子と暮らす。タイムスリップでやってきた二人の九十九十九と出会う。オリジナルの九十九十九を二人目の九十九十九と協力して殺す。義母の正体に気づく。この世界の神の正体に気づく。西暁町に帰ることを決意しつつ家族団らんを楽しむ。

 

 このあらすじ未満のちんけな文をひねり出すためだけに今スターバックスで二時間くらい居座ってしまっている。隣の席の爽やかな大学生カップルが就活の話しながら楽しそうに夏の予定を話し合っていてニート泣きそう。とりあえずほんとにざっくり言うとこういう話なんですな。書き出してみると序盤の九十九十九鬼畜すぎる。これだけじゃなくて義理の弟であるツトムが名探偵「大爆笑カレー」になったり、随所に創世記とヨハネの黙示録の見立てが散りばめられていたり、講談社太田克史が死んだり生き返ったりしてるんですけど、俺の文章力ではうまくまとめられないので勘弁してください。この小説の最大のネタバレしますと、物語のすべてが三つの頭を持った奇形児として産まれた九十九十九が生み出した「妄想プログラム」だったていうことですよ。この「妄想プログラム」を通じて論理的な思考を成長させることにより、いつか九十九十九が妄想から脱出することがあらかじめ設定されている。

 論理的な思考力を鍛えるために妄想の中で殺人事件を解き色々な女の子と付き合う必要があったのだと明かされる。ここは何回読んでも「おお!」と思う。高校生の時に読んだ時は書かれてる話のほとんどが分からなかったけどこの身もふたもない設定に衝撃を受けた。『ドラえもん』が実は植物状態のび太が見てる夢だったっていう都市伝説に近いおぞましさを感じる。「素顔を見ると美しすぎて失神する」が自分の奇形から目をそらすための現実逃避だった、とか原作と真っ向から対立する設定ぶち込むなんて容赦ないな。『カーニバル・デイ』の中でもちらっと「綺麗は汚い、汚いは綺麗」理論で九十九十九の美しさに懐疑的な指摘があったけれど。

 ひょっとしたら、九十九さんは誰よりも「醜い」のかもしれない。単に我々が「美しい」と錯覚させられているだけで、本当は失神してしまうほど醜悪な顔なのかもしれない。

『カーニバル・デイ』

 

 清涼院流水のJDCシリーズを読んだ上で『九十九十九』を今回読みかえしてみて新たに気づいた点などはあんまりない。『コズミック』まで読んでれば、九十九十九というキャラの大体の立ち位置つかめるし。セシルとセリカが「犬神夜叉」「霧華舞衣」を名乗ってるのはJDCシリーズ内で出生の秘密が明かされてないからなんだなと思ったくらい。あんなに苦労して『カーニバル・デイ』まで読んだ意味よ。『九十九十九』がひたすら九十九十九の内面を掘り下げていく話なのに対して、JDCシリーズの中だと九十九十九はあくまで登場人物の一人としてうっすら描かれるだけだから、まったく別ジャンルの話だと思う。九十九十九も『コズミック』から『ジョーカー』『カーニバル』になるにつれどんどん出番減っていってるし…。しまいには死ぬし…。「作者の意図を知ることのできるメタ探偵」という設定自体が舞城王太郎の描きたいものを書くのにちょうどよかったのかな。

 

C 了解です。次は……とまた俺か。『魅惑のミステリア』。千九百枚。疲れた。親殺し子殺しがテーマだから僕のツボなんだけれど辛かった。出だしは面白くて期待したんだけれど、どんどんトンデモ系になってしまう。パニックもののような話もあり、途中でどうでもよくなっちゃう。

D 以前読んだ話も○○○○○○○が犯人だった。

C 今回は聖書の見立て殺人。世界各地でいろんな事件が起こる。で、海王星Dという名前の究極の名探偵が大活躍。

D 前も出たよ。その探偵。あとルンババ12っていうのも出てくるでしょ。

C それだけじゃないぞ。新キャラは、その名も「大爆笑カレー」。インド人じゃないよ。落語家の師匠がつけた名前らしいんだけれど。

D こういう設定を聞くと、某作品の影響を受けてると思うでしょう?ところが、この投稿者の方が先なんだよ。だからこれは某作品の源流?なのかもしれない。

J (立松和平調で)お互い知らないところで流れてたんですねぇ。

 講談社 小説現代メフィスト 原稿募集座談会第15回より

 舞城王太郎メフィスト賞ができる前から講談社に持ち込みしてたっていうのは舞城ファン名乗るからには知っておいてほしい豆知識なのですけど清涼院流水がデビューする前から名探偵勢揃いのトンデモミステリ書いてたってのは超気になる。『煙か土か食い物』以前のボツった小説めっちゃ読みてー。講談社入ったら読めるのか?あと舞城王太郎より清涼院流水の方が年下っていうのは初めて知った。清涼院流水のがデビューだいぶ早いから年下感薄い。もしかしたら第二回メフィスト賞清涼院流水ではなく舞城王太郎だった可能性があったのかもしれない。本人はどう思ってるか分かんないし勝手な想像だけど、「俺のが先に考えてたのに…」とか「俺より年下のくせに」とか「こいつの文章より俺のが上手いのに…」とか思ったりしないのかな。少なくとも俺が舞城王太郎だったら絶対思う。清涼院流水のねちっこい三人称の文体とあのドライブ感あふれる文体って真逆だけど不可能犯罪と名探偵だらけって発想に行きついたの面白いな。まあ、こういう背景もあって一概に舞城作品について「清涼院流水の影響が~」とか言いきれないのが難しいところ。

 

「JDCトリビュート」も俺マジうんざりした。清涼院流水、皆読んでるか? 「JDCトリビュート」書いてくれって頼まれること、ちゃんとリアルに想像してみ?はあ?マジで言ってんの?と俺は思ったよ。

「JDC」なんて結局のところ名探偵がたくさん集まってるだけでどうでもいいし、清涼院流水なんて小狡いだけでくだんないし、まあとにかくちっともモチーフに興味がなかった。でもね、また俺はアホだった。俺の目の前にあった問題は「JDC」でも「清涼院流水」でもなかった。俺が手にしてた俺個人の問題は、これから他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくるっていうもっと大きな、根本的な問題だった。

俺はマジで自信があるからね、俺の「JDC」、「ミステリー」としても「純文」としてもかなりの評価がでないとおかしいと思う。

「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって」愛媛川十三

  上に引用したのは舞城王太郎愛媛川十三名義で書いた評論なんだけど、愛憎入り混じってる感じがかわいいと思う。あの傍若無人な愛媛川先生が言ってるだけで舞城王太郎本人がこう思ってるとは限りませんが。(「龍の歯医者」のコメントとか見るとめっちゃ常識人なのに)「名探偵が集まってるだけでどうでもいい」とか「清涼院流水なんてくだらない」とかぬかしおるよ。よくこれOK出たな。さすが奈津川の三男というほかない。あえてこの愛媛川=舞城だとすると『九十九十九』を書くにあたって持ち込まれたテーマは「他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくる」ことだったから「JDC」の名探偵オンパレードが封印されて逆に九十九十九がひたすら自分と向き合う内向的な作品になったのだと推測される。めっちゃ強引に喩えると『九十九十九』がTV版エヴァ最終話で、『カーニバル』はエヴァ旧劇場版みたいなそういう関係。清涼院流水流のひねった言葉遊び、恐ろしく雑な見立ては『九十九十九』に受け継がれてるけど、基本的に「JDC」はマクロな視点で強烈なブチかまし(『コズミック』でいう密室卿の犯行予告とか)があって「犯人は□□と見せかけて○○と見せかけて△△と見せかけて××……」っていう大量死による見立てとどこまでも追いかけても影の真犯人がいる陰謀論的な世界観だけど、『九十九十九』は正反対に派手な事件が起きていくけどどこまで掘り下げても「自分」しかいないミクロな視点で語られる。「真実は最終的には絶対に手に入らない」からすべての可能性を追うなんて不可能だしキリないよって言って諦めちゃう(これは『ジョーカー』も最終的にはそういうオチだった)し、作中の世界が九十九十九による妄想なので何度も世界ごとやり直して物語られる。そういう意味で言うと清涼院流水の「JDC」が個人を世界のために消費していく物語で、『九十九十九』が世界を個人のために消費していく物語なのかも。

 

 より『九十九十九』の理解を深めたいなら中俣暁生の『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』を読むことをお勧めしたい。先に引用した愛媛川十三名義の評論や舞城王太郎の書き下ろし短編もついてるしお得。本のタイトルになってる評論は「青春小説」と「探偵小説」を結び付けてすごく大きな流れを論じてて興味深い。言ってる事全然分からないけど。とにかくこの人は「青春」という言葉が文学的に「成長」と共に表現されていたのは第一次世界大戦までで、それ以降は成長したとしても「成熟」にたどり着くことができなくなってしまったので「青春が失われた」→「失うものは何もない」→「大人になりたくない」という風に若さの全肯定へと移り変わっていったと指摘している。昔は「大人になりさえすればゴール」だったのが「大人になったとしてもゴール(成熟)にたどり着けない」だったら「いつまでも子供でなにが悪い?」と。だからただ単に子どもが大人へと成長することを描いただけでは「青春」というもの表現し切れなくなったために新しい形の青春小説が生まれたと主張。それがポール・オースター村上春樹を初めとする新世代の作家の生み出した探偵小説の手法を借りた「アンチ青春小説」と呼ぶべきもので、「形式と内容が不可分であり、小説についての定義を内包し、作品自体がそれを実現しているような小説」のことだと言う。それは良質なミステリーのように文章のすべてに小説を成り立たせるための意味を持たせなくてはいけなくて、従来の成長や成熟を前提とした「青春小説」に批判に成立するのが「アンチ青春小説」と呼ばれるジャンルだ。この「アンチ青春小説」は語り部である主人公が探偵役を担って小説を書く動機を解きあかしていく。小説を書いているのは語り部なので犯人も自分、依頼人も自分、探偵も自分、記述者も自分。うまく説明できないのだけど「何故この小説が書かれるべきであったか?」という謎を主人公が解決させていくメタ的な構造を有している。筆者に言わせるとどんな手法で描かれようが「青春小説」自体子どものお遊びにすぎないので早く「鍵のかかった部屋」=「頭蓋骨の内側の部屋」を解体する新しい小説を書いてみては?と提案する。で、最後に作家へ

◎「青春小説」を殺害してください

◎そのとき、探偵小説の手法をもちいてください

 

 という内容の依頼状を突き付けて論が終わる。この評論を受けて舞城王太郎が返事として『僕のお腹中からは多分「金閣寺」が出てくる』という短編を書いてるんだけど、その短編より『九十九十九』のが「アンチ青春小説」してるような。中俣暁生が何をもって「青春小説の殺害」て言っているのかフワッとしててつかみきれなかったんだけど、『九十九十九』自体が自分の脳内からいかに脱出するかをシミュレーションしてて「鍵のかかった部屋」=「頭蓋骨の内側」の解体を目指す作品なのかなと思った。「形式の強度」っていうか最後まで読めばこの小説がなんで複雑な入れ子構造でなければいけないのか明かされて小説自体の仕掛けを主人公が読者と共に発見するっていう仕組み。犯人=探偵=依頼人=記述者の関係がこれ以上ないくらいシンプルに提示される。最後に迫られる選択も要約すると「辛いことが待ってる現実」か「自分にとって都合のいい妄想」どっちかを選ぶのかってそれエヴァTV版やん。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」やん。3人になった九十九十九の内オリジナルが「こんな都合の良い世界ぶっこわして成長しよう。さっさと現実に戻ろう」っていう戦前の「成長すればゴール」=成長第一主義の考え方で、二人目に生まれたほうは「成長して現実に戻ったところでいいことなんて何もないんだからこのままでいようぜ」=成長の先にある成熟を信じない現状肯定による「大人になんかなりたくない」という考え方に沿って行動している。この2人は中俣暁生のいう近代における青春の変遷をそのままなぞってるわけで、最終的に答えを出す3人目の九十九十九はそれを踏まえてどんな答えを出すかというと、「いつか成長しなくてはいけないけど、今この瞬間の世界も受け入れる」っていう見ようによっては優柔不断に思える決断を下す。この決断がたぶんあの時代の「アンチ青春小説」の出した答えの最新版だったのかもしれない。

 

 このラストシーンについては東浩紀が『九十九十九』についての評論で熱いこと言っている。

九十九十九』の最後の段落は「だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる」という文章で始まっている。「この一瞬」の協調は、そこで舞城が問題にしているのが、もはやトゥルーエンド(現実への脱出)でも永遠のゲームプレイ(虚構への自閉)でもないことを示している。三人目の九十九十九が選んだシナリオは、グッドエンドに導かれるかもしれないし、バッドエンドに導かれるかもしれない。しかし彼はすでに、梓でも栄美子でも有海でもりえでも多香子でもなく、有紀を選んでいる。そして、また、たとえ未来において不幸な展開が待っていたとしても、彼がそのシナリオであるとき幸せに包まれたという、その「楽しすぎる」経験は経験として残る。三人目は、現実でも虚構でも、物語でもメタ物語でもなく、その現在の選択の事実だけを信じる。「よく見ろ!目の前のものをよく見ろ!」と彼は叫ぶ。『九十九十九』を締めくくる家族の団欒は、主人公の結論を先送りする消極的な場面としてではなく、そのような積極的な意見表明の場として読み解かなくてはならない。

ゲーム的リアリズムの誕生』 

  一番盛り上がってるところを長々と引用してしまった。

 あのラストは、読んだ人それぞれが勝手に解釈すればいいと思う。俺は愛媛川十三の書いてた「他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくる」っていうその一文が全てかな、と思う。冒頭で「次会ったら絶対殺す」という予言をして実際何回も殺してるのに第七話で殺さなかったり、現実で自分を虐待していた鈴木くんを義母という形で自分の物語に取り込んでいくとかそういう形で「他者を受け入れるか」って問題をなんとか解決していこうとしてたんだよ。だって最初の第一話の段階で九十九十九が本気で心許してたのってツトムくらいしかいなかったんじゃないの。第二話でも普通に恋人もズバズバ殺ってるし。三つ子を育て始めてからようやく「人の命大事にしよ」って感じになっていった。その三つ子も現実において自分がこういう風に愛されたかったって願望の裏返しだと思うと切ないんですが。っていうことを考えながら書いてたら一週間が過ぎました。ひさびさにものを考えすぎて頭が痛い。あと、高校の時に聖書勉強していたので聖書の見立てについてなにか言うことないかな~と思ってたけど、これもなかなかハードルが高いし真面目に授業聞いてなかったのでそもそも聖書のことあんま覚えてなかったので書けません。

 

 ネット上の色々な人がためになる文章をあげていたので、そういうの読んじゃうと今書いている自分の文章の稚拙さに目をそむけたくなる。頭のいい人を引き付ける何かがあるのかね…。3回目にしてようやく九十九十九の増えた仕組みを理解した系の残念な脳みそなんでしょうがない。あと『九十九十九』はミステリ舞城にしては珍しく誰も(実際には)死なない話だよね。そういう意味でも40億人殺す清涼院流水とは真逆。

 

 あと今回読んでもいまだに、加藤順子さん殺したのが誰なのか分からないんですけど~。セシル兄妹なの?九十九十九なの?刀とモノポリー的に九十九十九じゃ無理だと思ってたんだけど、第三話で栄美子が殺したのは九十九十九って言ってて、「は?」てなる。センター試験国語98点マンだからってバカにしないで。

 

crmg.me

 

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

 

 

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

 

 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 

 

『カーニバル・イヴ』『カーニバル』『カーニバル・デイ』を読んだ。

 清涼院流水の『コズミック』『ジョーカー』に続くJDCシリーズの3作目の長編「カーニバル」をようやく読み終えた。気が遠くなるほど長かったような気がする。なんでこんな時間かかってしまったんだろう。無駄に3冊セットだし…。『イヴ』が300ページ、『カーニバル』が800ページ、『デイ』に至ってはまさかの1000ページ超え。もう新井英樹の『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』並みにブ厚くて持ち運びが不便でしょうがなかった。しかも講談社ノベルス特有のぎっちり2段組みでさあ。これで2000ページだと原稿用紙換算だと何枚なのか。4000枚?いくらニートで時間あるとはいえきつかった。そもそも清涼院流水そこまで好きじゃないのにですよ。数ヶ月もの間これが「読まなきゃいけない本」として心の中に鎮座してる苦しみたるや。分からないでしょうね、あなたには。

 

 今までの人生で一番読むの大変だったの小説はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。上巻が鬼門すぎて高校生の時に買って読み終わったの大学卒業した後だったくらい読むの大変だった。でも、今回『カーニバル』読んで分かった。俺は本当の地獄を知らない甘ちゃんだった。小説を読んでここまでしんどくなったこと卒論で『源氏物語』読まされたとき以来かもしれない。(結局『源氏物語』は読むの断念してしまって読み終えずに卒論を書くことになったのですよ)読んでも読んでも終わらない。人いっぱい死ぬ。途中真剣に窓から投げ捨てようかと思った。

 

 読破すること自体がネタになる本はいろいろ存在すると思う。『失われた時を求めて』『フィネガンズ・ウェイク』『非現実の王国で』『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』とかさ。でも、清涼院流水の『カーニバル』はネタになるの?っていう。この日本に『カーニバル』全部読んだ人って超マイナーじゃないすか。大半の人が「清涼院流水?知らねえよ」て感じじゃないすか。ブログに書いたところでバズるはずもないじゃんすか。てか仮にバズったとしても読み終える苦労とバズることがはたして釣り合いとれているのかも分からねえ。俺がこの作品を読み終えるのがいかにつらくて大変だったか懇切丁寧に説明したところで読んだことない人に伝わるのか。どうなの。ブログのお題で「流水大説」なんてリクエストされなきゃ絶対手に取らなかったシリーズですもん。読む前からBOOKOFF講談社ノベルスコーナーで見かけるたび「こんな小説読むのチンパンっしょ」て思ってバカにしてましたよ。まさか読むことになるとは。

 

『カーニバル・イヴ』

 予告編みたいな一冊。「犯罪オリンピック」が始まるという噂がネットで広まってJDCの探偵達が不安がる。というだけの話をおよそ300ページかけてダラダラと描写。一番最後のページでJDC本部ビルが爆破されて「犯罪オリンピック」が開幕する。ネタバレ?知らねえ。どうせこのブログ読んだ人もこれ読まないと思うもの。本編以外にも心理テストとか用語集とかJDC所属探偵の一覧表がついてるよ。お得です。

 

『カーニバル』

 ビリオン・キラー(十億人殺す者)」が犯罪オリンピックを主催。世界中の名所が燃えたり爆発したり崩壊したり消失したりする。背表紙から引用すると「イースター島モアイ ナスカの地上絵 ミステリサークル ストーン・ヘンジ カルナック列石 カッパドキア地下遺跡 バミューダ・トライアングル 喜望峰海獣 エンパイアステートビル 空中城塞都市遺跡 エッフェル塔 ナイアガラの滝 新凱旋門 グリニッジ旧王立天文台 大阪城天守閣 ネス湖ネッシー ボロブドゥール寺院 ピサの斜塔 グランド・キャニオン ノイシュヴァンシュタイン城」などが舞台となる。読んだはずだが、あまりにもいろいろ起こるのでどこで何が起きたのか全然覚えてない。世界の名所がたくさん出てくるので旅行してる気分になれてお得だと思います。あと、事件の規模と死者からしてもう犯罪っていうかテロ、災害のレベルで謎解きとかそういう問題じゃない気がする。この連続不可能時限犯罪と並行して謎の伝染病が流行し一日に400万人ずつ死んでいきます。何言ってるかわかんないでしょ。俺も分からん。

 

『カーニバル・デイ』

 いろいろあって最終的に40億人死にます。嘘じゃないんですよ。マジなんです。一応これまでに起こった事件の犯人とか犯罪の方法とかも明かされますけどスケール大きすぎて意味不明です。そもそもJDCの探偵が誰一人真相にたどり着けないので最終的に敵がネタバラシします。そのネタバラシの仕方もものすごく荒っぽいというかなんというか。確かに全部説明したはしてるけどこれでいいんすか。ここまで来るとミステリじゃなくてSFですねって感じ。清涼院流水急にオカルト方面に舵切ってどうした?ってなる。ムーにハマってたんすね。九十九十九もあっけなく死んじゃう。生き返ると思ったら最後まで死んだままだし救いがない。物語を最後まで読みすすめた読者には「本を乱暴に読み飛ばして批判するやつは獣だぜ」というありがたいお言葉が待ってる。俺はもう獣でいいです。アニマルです。畜生です。許してください。てなった。泣きそう。

 

 これで時系列的にはJDCシリーズの最後まで行ってしまったことになる。(「彩紋家事件」残ってるけどコズミックの前の話なんで)よっぽどのことがない限りもう2度と読むことはないと思う。『彩紋家事件』も買ったけど読みません!疲れたから。こんだけ長い本なのに読み終えた後、胸に残るものが皆無だな。ただひたすら疲れた。やっと終わって良かった。その気持ちしかない。これ面白いっていう人ほんとにいるのかしら。半年ちかく四苦八苦しながら読み進めたわりには全くリターンがない。このブログを読んだ人が片っ端からこの本を購入してくれればアフィリエイト収入で儲けられるんですがね、ヘヘ。今のままだと買ったお金と時間を無駄に浪費しただけなのでなおさらそう思う。自分の好みに合わない本を読むことがこれほどの苦痛を伴う作業だとは思わなんだ。でも、人生って基本そういうものなのかもしれない。そんなことを考えさせられる読書体験でした。

 

 2ヶ月ぶりに更新したブログがこんな適当でいいんだろうか。みなさんお元気ですか。この2ヶ月の間に地元の駅に磯丸水産が出来たりTSUTAYAのCDコーナーが潰れたり、中学生の頃に通っていたゲームセンターが潰れておしゃれな本屋さんになったり色々ありました。俺は今も変わらずニートをしています。 ニート生活ももうすぐ一年を迎えます。一周年パーティーをしようとtwitterで募集をかけたけれど誰からも参加したいという連絡がこなかったりしました。元気です。ニート生活長すぎて何もすることがありません。テレビに録画した「エヴァンゲリオン旧劇場版」か「ワールドトリガー」を一日中見返して過ごしてるけど、それにも飽きつつある今日この頃。

 

 

カーニバル・イヴ―人類最大の事件 (講談社ノベルス)

カーニバル・イヴ―人類最大の事件 (講談社ノベルス)

 

 

 

カーニバル―人類最後の事件 (講談社ノベルス)

カーニバル―人類最後の事件 (講談社ノベルス)

 

 

 

カーニバル・デイ―新人類の記念日 (講談社ノベルス)

カーニバル・デイ―新人類の記念日 (講談社ノベルス)