コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

NEET IS MURDER(ニートは殺人)

明日から働くことになった。今日がニート最終日。いちおう。

七つの大罪でいうところの怠惰を体現してきたような一年だった。「セブン」だったら一年間ベッドに括りつけられて衰弱死させられてもおかしくなかった。

長い時間をかけて波と砂浜に割れたガラスの破片がゆっくりと磨かれるみたいに、ニート生活を経てちょっとずつ俺のメンタルがすり減っていった気がする。

働いていた時のメンタルの削られ具合がプロレスラーの林檎潰しくらいだったので、消耗の度合いとか瞬間最大風速で言うとマシであったと思うが、結局どんなふうに生きてみても大人になればこんなもんなんだろう。

すり減らすべき自意識が過剰すぎる。どんなに落ちぶれてもまだ自分にへらへらと期待できるのは、たぶん本当に俺がバカだからなんだと思う。

死ぬほど働きたくない。

どんな風に生きていても、こういう境遇になっていたんだろうか。今まで出会ってきた知り合いの中にニートは一人もいない。つまり、俺は今まで知り合った人全員より社会性が足りてないということなんだろうか。ダメ人間一等賞なんだろうか。

明日から働くのになんで、もろもろの準備を後に回してブログを書いてしまうんだろう。8月31日に呑気こいて昼間漫画読んで夜に泣きながら宿題をやる小学生のマインドから一歩たりとも進歩していない。

人より生きる気が足りない。

働いてる人すべてが超人に思える。そして、自分も明日からそうならないといけないのに、無理だ。また、何もかもが台無しになってしまう気がする。というかそうなるんだ。人生なんて。

暇だったので、家にある教育関係の本を読んでいると、俺のパーソナリティー形成の問題に大きく関わっているかもしれない記述を見つけた。

賢明なる読者諸君は、「愛着障害」という言葉をご存じだろうか。

俺も本でちょろっと読んだだけで、得意げに語るほどの知識は持っていないんだけど、ひらたく説明すると幼児期の親の育て方や養育環境のせいで身近な人との愛着(結びつき)が十分に形成されないことによって、大人になったときに様々な問題が生じることがあるらしいのだ。例えば抑圧的であったり過干渉な親の元で幼児期を過ごすとそういうった問題が後になって現れやすくなって色々大変だよ。ってこと。

身近な人との愛着がちゃんと作られないまま大人になると、自分の価値の拠り所を他人に求めるような不安定な精神状態を抱えることになる。それを「不安型愛着障害」と呼ぶそうなのですが、これは自分もちょっと分かる気がする。

常に周囲に気を使い、機嫌を伺ったり馬鹿丁寧に対応したり、迎合したり、不当な要求にも従ってしまうことが多いです。少しでも相手が拒絶的な反応を示すと、激しい不安に襲われ、それを容易に払拭できません。自己価値が低く、他者は自分を傷つけたり非難する存在として捉えてしまいます。子どもの頃はいじめられやすい傾向があります。


 身近な人に依存し、その人に自分の存在を保証してもらうことで何とか、自分のアイデンティティを保っています。自分が気を使っている努力の分だけ相手も自分を重視していると思い込んでいます(もちろん、そんなことはないので、空回りしてしまう)。

 

分かる気がするんだけどもさあ、一般論でいうと親との関係が100%良好な家庭なんてそっちの方が超レアだよな。誰でも大なり小なり「こんな親いやだな」って思いはあって当然なはずだ。程度の差はあれ。俺に当てはまるとしたら世の中のほとんどの人もそうじゃないとおかしい。

自分の子どものころは両親が喧嘩ばっかりしてるのをよく覚えていて、その時の経験から大声を出すおっさんが死ぬほど怖くなって今も苦手だ。でも、他の家庭と比べてどうかは分からない。総合的に考えるとそこまで夫婦仲は悪くないんじゃないか?二人で旅行とかよく行ってるし。ただ両親とも教師なだけあって、ほかの家庭よりも抑圧的な傾向が強かったのは確か。どんなことにも中途半端が許されない雰囲気。行きたくもないスキーの合宿に連れてかれたり(まあまあ、いじめられた)、めちゃくちゃ滑るの下手だったのに無理やり大会に出させられたりした(転んで棄権した)のは本当に今でもムカついている。実際のところ、家に先生が常に二人もいたらどう考えてもウンザリでしょう。

こんなん言っても、血液型診断や病名探しと同じだな。こんな風な理屈付けも。姉は立派に社会人やってるし。自分が今、ダメな理由に名前をつけてほしいだけだ。親とか育ちのせいにして責任から逃げようとしてるだけなんだよね。しっかりせい。

もし「愛着障害」に興味ある人がいたら 

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

 

を読んでみるのをオススメします。分かりやすくて、タメになります。

 

「生きる気が少ない」とか「しんどい」っていつも俺は癖で言ってしまうんだけど、「生きる気の少なさ」とか「しんどさ」をぶっ飛ばしてくれる「誰か」と出会いたくて、でもなかなかそれが難しいんだよ。結局、本当の本当に他人任せだし、いつもそれで勝手に舞い上がったり落ち込んだり死にたくなったりするから。こういう極端な人間観もちょっとずつ捨てて最初から他人に期待しすぎない方がいいのかも。

 

話は変わりすぎるくらいに変わるけど、古着屋で久しぶりに服を買った。

フレッドペリーのトラックジャケット…とカッコよく言いたいが実際はジャージ。

俺が着るとジャージなんだ。イギリスが舞台の映画を見るとちょっとガラの悪そうな若者がアディダスやらフレッドペリーのトラックジャケットをスタイリッシュな感じに着こなしていて、ジャージかっけえて思ってた。(「キングスマン」の主人公の友達か不良オヤジのグループの誰かがフレペのジャージ着ていた。うろ覚え)そういう感じに憧れて買ったのに俺が着ると見るからに「THE ジャージ」な仕上がりで笑うほかない。デザインの問題なのか、俺の体型の問題なのか。雰囲気がもうマラソン大会の中学生。

 

俺は今までジャージを私服として着たことはなくて、それはなぜかというと、いくらジャージにこだわりを持って着たとしても一見して「だらしない奴」と見なされるリスクを負うのが怖かったから。

でも、よくよく考えると「だらしない奴」に見られて困るのは「本当はだらしなくない奴」だけなんだ。俺はどっからどう判断しても内面も「だらしない奴」だから見た目で「だらしない奴」と判断されたとしても一向に構わない。むしろセルフプロデュースとしてかなり有効ではあるまいか。ファッションで自分の人となりを一発で印象付けることができるならば。もっと「だらしなさ」を推してこう。

それと、似合ってるかどうかは置いといて、自分の憧れていた服を手に入れるのは気分がいい。テンションを高めてくれる。誰かに会いたくなる。ものすごく前向きな気持ちを与えてくれるものだ。たとえそれがジャージであったとしても。はやくジャージの似合う男になりたい。

 

(フレッドペリー) FRED PERRY ジャケット FUNNEL NECK TRACK JACKET SY6231 266 266CARBON BLUE 2-3

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ニートがニートやめることになった話

 舞城王太郎の『深夜百太郎』という作品があって、舞城王太郎が2015年5月24日から8月31日の間にTwitterに毎日一話ずつ投稿した怪談を百話まとめたものが本になっている。舞城王太郎のファンを自称しているくせに、なぜか今の今までスルーしていたけど、ニートだし夏だし暇だから小説の感想を、その本の発表形式に倣って毎日一話ずつTwitterに感想を投稿しようかなと思い立ったのが今から約90日前の6月のことだった。その頃の俺には、100日後の自分にどんな未来が待ち受けているかなんて予想もつかなかった。「そんな先のことなど分からない」はハンフリー・ボガートの台詞で、「まして未来のことなど僕にわかるはずもない」は山下達郎の曲の歌詞ですね。未来のことが誰にもわからないのは当たり前で、俺の日々の生活態度のシド・ヴィシャスもかくやという無軌道っぷりはまさにパンク。ナンシーはいないけど。公務員試験を控えていたら、「受かってたらいいなあ」とは思っていたが、人より色んなことを過剰に不安がるくせに、具体的に人生をより良くするために行動しようとかそういう風にはならないからニートなんだよ。

 

 『深夜百太郎』は明らかに百物語を下敷きにして書かれている作品で、俺は日本文学科だったのに全然真面目に授業を受けてなかったので、百物語がなんなのかは一般知識レベルでしか知りません。物語の百話目を語り終わると何か恐ろしいものが現れるという。そういう認識。せっかくだから『深夜百太郎』を読み終えたら、自分で百一話目の怪談を書いてみてこのブログで発表してみようかなどと、うっすら考えていたけど、この本の怖がらせ方のパターンが多様すぎて俺にはとても無理だと思ったのと、公務員試験に落ちたショックでなにも考えられなくなってしまったので、頓挫いたしました。そして、九十数話を読み終えた今において俺はやはり百物語とは何らかの力を持っているんじゃないかと考えるようになりました。百話目の後に何か恐ろしいものが現実になる。こういうことが実際に起こりうるのではないか。ニートにとって一番恐ろしいものは<生活といううすのろ>に他ならないわけです。現実社会のあらゆるもの、あらゆる他人が俺という人間の綿菓子のようなハートを、うんざりさせたり、不安にさせたり、脅してきたりしてくるので、就職をしない、社会に参加しないという逃げの一手でもって平穏を保ってきたのに、ついにそれが破られようとしている。俺はとうとう就職することになったのです。就職を。

 

 働くことになったといっても、ごく短期間なのでそこまで大した話ではないですけど。こういうのは就職というカテゴリーでいいのかな。とにかく期間限定でニートという肩書を捨てることになりました。なにをして働くのかというと聖職者つまりエクソシストですね。ひょんなことからイノセンスに適合したので哀れなアクマに魂の救済を施すことになって首が180度回る女の子と戦ったり…という冗談は置いといて聖職者は聖職者でも、「生徒はミカンじゃないんです」とか言ったりする方。ここにきて悪い冗談だと思う。俺の人生のストーリーライターがコカインに手を出したとしか思えない。考えてみてほしいんですけど、子どもたちを教え、導き、啓蒙する、そういう高尚な職業の人が会社員をたった数ヶ月で放り出したニートであってはいけないでしょう。どう考えても。誰だってそう思う。俺もそう思う。というか公務員試験に落ちてる、自分の設定した目標に全く届かないでこの先の未来が見えない状態のやつがいったい何を教えられるんだって話だ。「夢はかなう」「毎日コツコツがんばれ」とか夢破れて毎日怠けていた俺に言う資格ない。

 

 でも、決まってしまったからには全力を出してやるしかないと思いました。たとえニートでも雇っていただいたからには血反吐吐くまで走りこんで血便出るまで素振りしますよそりゃ。お金をもらうのですから、それなりの仕事を果たさないと「何しに来たんだお前」って言われてしまう。俺の中の全てのめんどくささを封じ込め押さえつけて、頑張らなくてはダメなのだ。乗り越えられる気がしない。生きることがずっと不安で、しんどい。今までそういう気持ちを常に持ち続けてきた。前向きに生きるためのエネルギーが人よりちょっと少ない。それでも、ちゃんとした生活するためには何かをして生きていかないといけなくて、何もなかった俺に役割を与えてくれる場所があるなら、もう一度だけそこで頑張ってみようと思った。でも、本当に不安でしょうがない。

 

 このブログを続けていた理由は、1人でニートやっているのがさみしくて暇だったというそれだけの理由だったけど。これからは多分忙しくなったり、色んな人と出会うことになると思う。「孤独なニートが好き勝手に不平不満を言う」というブログのコンセプトが、根本から崩壊してしまう。今までの抽象的な不安よりは、労働という具体的な負担がのしかかってくる。そうなると、良くも悪くも今まで通りの俺ではいられないし、そもそもブログを書く暇もないか。あまりに自分の身の回りの環境が目まぐるしく変わるので、まだ働いてないけど心が重くて死にそう。公務員試験に落ちたその翌月になんで働くことになったんだろう。いきなりすぎる。よくわからない。

 

 イギリスのピンク・フロイドというプログレのバンドが「あなたがここにいてほしい(Wish you were here)」という曲を歌っていて、それはかつてバンドの中心にいて色々あって脱退してしまったシド・バレットという人物に捧げられたものらしい。

 

つまり、君は天国と地獄の見分けがつくと思ってるんだね、
青空と痛みも。
緑の野原と冷たい鉄のレールは見分けられるかい?
微笑みとベールは?
君は見分けがつくと思っているんだね?

それで彼らに言われて君は
亡霊たちを得るために 英雄たちを手放し
木々を得るために 熱い燃え殻を手放し
涼風を得るために 熱い空気を手放し
変化を得るために   嬉しくもない慰めを手放し
戦いの端役を捨てて 檻の中の主役を取ったんだね? 

  

 ファンでもなんでもないからピンク・フロイドについては詳しくは知らないので、メンバーとシド・バレットの間に何が起きたのかは分からない。けど、そういうメンバーの曲に込めたあれやこれやを知らなくても「いい歌だな」と思う。穏やかなアコースティックギターのバラードで、「かつてそこにいたのに今はいない人」を想う気持ちを淡々と歌い上げる。「ラブソングができるまで」という映画の中で、ヒュー・グラント演じる歌手が「高尚な文学作品なんかよりポップソングの方が多くの人々のことを楽しませてきたんだ」というようなことを述べていて、なるほどと思った。

 俺はピンク・フロイドの「あなたがここにいてほしい」を聴くたびに、自分の人生だとかの「やるせなさ」にひっそりと寄り添ってもらっているような、慰めてもらっているようなそういう気持ちになる。何十年も前の外国の曲がなんでここまでハートを揺さぶるんだろうか。歌詞が普遍的なのにそれでいて、リアルで美しい。

 自分の抱えているどうしようもない空虚な気持ちを分かり合える「あなた」が「ここ」にいないこと。1年間のニート生活でこれほど共感した歌はないよ。本当に。

 

 仕事を始めることになるけども、本当のところはノホホンとした生活がいつまでも続いてほしかった。この一年間は公務員試験に落ちたこと以外はおおむねピースフルにやっていくことができた。ここからは、もうあれだ。<生活といううすのろ>と取っ組み合ってもんどりうって日々を過ごすことになる。扇風機の前に置かれたわらびもちのように震えながら生きていくんだな。少なくとも決められた期間のあいだは。泣きたくなるね。

 

 ブログはどうなるんでしょう。仕事が始まったらどうするか考えます。仕事のこと書くわけにはいかないと思うので、これまで通り漫画とか小説のことなど書くのか、それともまた別の文章を書くことになるのかはまだ決まっていません。それもまた人生なので。

 

「え!?ニートが先生に!?」みたいなブログとか見るからにおもんなさそうだし。

 

 

 

痛みを知らない子供が嫌い。心をなくした大人が嫌い。

俺にはコミック雑誌なんか要らない
俺にはコミック雑誌なんか要らない
俺にはコミック雑誌なんか要らない
俺のまわりは漫画だから

頭脳警察コミック雑誌なんていらない」

 文章としてうまく書けているか、どう読まれるか、を抜きにしてブログに書いてていちばん楽しいのは、漫画とか小説の紹介だ。なぜかというと、自分には漫画とか小説の話を話し合う友達がほとんどいないからで、わざわざ文学部に行ったのにそういう事を話す友達が全く出来ないというのは、いかがなものかと思う。映画サークルに所属していて映画好きの友達はびみょうにできて、大学時代は「この映画があーだこーだ」みたいな話を思う存分出来たので良かったが、漫画と小説の話はほぼしなかった。通ってた頃は知らなかったけど夏目房之介先生の講義とかやってたらしいので、取っておけばよかったな。今さら後悔しても遅いが。ニートになってからyoutubeマンガ夜話ばっかり見てるけど、ああいう(良い大人が!)漫画について好き勝手に議論できる場所って羨ましい。あと「げんしけん」を大学四年生になってから読んだのも、結構重めのボディブローとしてレバーに効いてる。あばら粉砕コース。俺はもしかしたら漫研に入りたかったのかもしれない。絵さえ描けたら漫画作ったりだとか、コミケとか楽しそうだし。

 随分前にブログで書いたけど、穂村弘のエッセイで、恋人の部屋でしりあがり寿の「夜明ケ」を借りて読んでたらものすごいページがあってそのことを興奮しながら恋人に伝えたらそのページは恋人にとってもお気に入りだったので大いに盛り上がりお互いの運命の波長がピッタリ重なるのを感じてシアワセだった…みたいなエピソードがあってですね。そんなサブカルおのろけ話はどうでもよくて、しりあがり寿を読んでる女の子なんてマジでどこにいるんだよって話をしたいわけですね。どこに?いるの?もしもし運命の人ですか?大学の漫研にもいなさそう。穂村弘漫研じゃないだろうし。そのエピソード読んでからしりあがり寿の『夜明ケ』買ってきて読んだけど、そのものすごいページがどこか分かんなかったので俺の運命の波長は穂村弘と全く重なってなかったようだ。「夜明ケ」の中で一番好きな話は『されどコンパの日々』という短編で、その中のライブシーンが(俺的には)ものすごいと思ったけど穂村弘的な正解はどうなんだろう。(エッセイの中では明らかにされない。のろけといてそこ隠すのはズルいと思う)

 俺も元はといえば高校のときの彼女がいままで出会った人のなかでも屈指の漫画好き(センスはともかく自分で買い集める量が高校生のわりに多かったと思う)で、漫画を色々読むようになったのはその人の影響が大きい。彼女が持ってる漫画の大半はそこまで興味そそられなかったけど「HUNTER×HUNTER」だけは、本当の本当に「貸してくれてありがとう」としか言えない。ピクルと闘う前の愚地克巳並みに感謝してる。そこらへんが俺の漫画集めの基準が変わったターニングポイントであります。中学生の頃から「ジョジョの奇妙な冒険(4部)」とか「金色のガッシュ!!」は好きでしたけど。高校はミッション系のくせにというかだからこそというかやたらスクールカーストがきつくてアメフト部に肩パンされまくりで教室で「BANANAFISH」でも読もうものなら「ヘイ!ファギー!」だの「キスマイアス!」だの言われて、結局「BANANAFISH」もくだらん言いがかりつけられる境遇(最初から家で読めばよかっただけだが)で楽しめなくてなんとなく手放したりとかそういう生活を送っていて、「男なら刃牙」「男ならGANTZ」「男ならONE PIECE」みたいなマッチョイズムに弾圧を受けていた時代だった。いやどれも面白いと思うけどさ。当時の俺にとってはクラスメイトのボンクラ共が知らないような面白い漫画を探したり読むことが心のお守りになっていた気がする。俺の漫画の選び方の根底にはこういう逆張り精神が横たわっているのだ。

 とはいえ、自分とセンスの合う漫画好きの人がたまたま身の回りにいなかっただけで、俺自身もそれほど漫画詳しいわけじゃないのも事実。持ってる量もチョイスもガチの漫画道有段者に比べたら「出直してこい」って感じだろうし、萩尾望都高野文子も読んだことない。あくまで俺は俺の好きな漫画が好きなだけだから、そういう大きな意味での漫画好きじゃないのです。まず本当に「漫画道楽」を嗜むなら親の持ってる漫画らへんから勝負始まってる感ありませんか。うちの親はほとんど漫画読まないので、ほぼ高校くらいから自分の育ててきたセンサーで漫画を集めないといけなくて、それでなおかつ語る友達もいないって孤独すぎる。女の子に貸したら返ってこないし。だから漫画のことをこういった電脳上のブログで語りたくなるわけですよ。

 でも漫画なりを取り上げてブログ書くなら書くで「渋いチョイス」って言われたい。アホほど。めんどくさい性格だ。誰かに漫画勧められたとして、その漫画がつまらなくても、「つまんない漫画勧めやがって」てなるけど、面白くても「なんで俺より先にこんな面白い漫画知ってるんだよ…悔しい」てなる。狂ってる?それ褒め言葉ね。

 基本的にこれは俺の承認欲求の問題で、面白い漫画に読んでる時は単純に、頭の中で「面白い!この漫画の面白さを世界で一番ハートに感じているのは俺だ!」っていう電波を受信している。現実がクソほどポンコツな分だけひたすらに虚構に感動しいなんです。漫画を語る友達がいないのも悲しいけど、その電波をうまく言葉に変換出来ない、つまるところ自分が漫画を語る言葉を持ち合わせていないことが一番悲しい。その点、マンガ夜話に出演しているコメンテーターとか穂村弘は凄い。あんな良い大人というかもはや中年のおっさんなのに漫画について、恥ずかしげもなく、めちゃくちゃ真摯に語ったり批評している。ありえないくらい魂の深いところで。それが眩しいしとても羨ましい。

 単なる負け惜しみだが、しりあがり寿を読む女の子はレアだと思うけど、彼女だとしてもあんまり羨ましくない。俺は作品単位でたまに好きなくらいでそこまでしりあがり寿にハマってないから。彼女から借りた漫画にハートを打ちのめされ、その感情を彼女と共有できるといった関係性とシチュエーションが羨ましいだけです。大学の時の彼女の愛読書が浅野いにおの「おやすみプンプン」だったから、借りて読んでも「おぉぅ…」ってなりました。ある意味ハート打ちのめされたけど全然盛り上がらなかった。向こうは俺の「子供は分かってあげない」を借りっぱなしで別れたし、あれからもう一年くらい経ったのね。

 借す漫画だけはあるのに、女子に。

 

俺も 君も そしてみんなも
このへんてこな世界で
これからやっていくわけなんだけど

ゆらゆら帝国ゆらゆら帝国で考え中」

 

夜明ケ (Jets comics)

夜明ケ (Jets comics)

 

 

 

拠る辺なさなんてのはいつものことだろ

〝ここにあるものでおまえのものはおまえだけさ〟。そうかもしれないが、おれは自分のものであるおれと、ずいぶん折り合いが悪かった。おれは普段はろくに口もきけなかったし、自分と折り合いの悪い理由を説明することもできなかった。おれはおれからトンズラしたかった。

中島らも 「永遠も半ばを過ぎて」

 生きるのがつらくなったとき、いつもこの小説のことを思い出す。

 まず「永遠も半ばを過ぎて」というタイトルが素晴らしいと思う。超キラーフレーズ。概念として果てのないはずの永遠の「半ば」ってのがヒネりが効いてて恰好よくないですか。「永遠も半ばを過ぎて」というのは作中に登場する架空の小説のタイトルでもある。

 主人公の写植屋(ワープロに活字を打ち込む仕事)が詐欺師になった同級生と再会して、面倒に巻き込まれることになる。(巨大タニシを預けられたり部屋に居候されたり金をせびられたり)

  眠れない写植屋が詐欺師の常用してる睡眠薬をもらうが、オーバードーズでラリったせいで無意識のうちに「永遠も半ばを過ぎて」という小説を書きあげてしまう。それを「幽霊の書いた小説」として出版社に売り込むために、写植屋と詐欺師というニッチな職業の2人が即席のタッグとして手を組む。そういう意味ではバディものと言えなくもない。中学生の時になんとなく手に取って買ったけど、二十歳超えて読んだ方がなにかと沁みる。主人公が内気かつ孤独だったり口下手だったら、その時点で無条件で感情移入してしまう。

「えっ。ユーレイが小説を書いたの!?」巨大タニシの母貝1個1億円の商談をしくじった三流詐欺師の俺にも、運がめぐってきたようだ。謎の原稿を出版社に持ち込んだところ、文壇の大事件に発展し…。うふふ。ここは腕の見せどころ。輪舞するコメディ。あふれ出る言霊。待ってましたの痛快らもワールド。

 文庫のあらすじだと、詐欺師の方に焦点あてていて軽い感じなのに。うふふとか、痛快らもワールドとか。たしかに、笑える場面も結構ありますけどね。写植屋視点だともっと内省的というか、それまで孤独にひたすらワープロだけを打ち続けてきた男が、騒動を通して一歩ずつ世界に踏み出していく話として秀逸なんすよ、と力説したい。口下手(無口)な男が、語り始める瞬間ってそれだけでドラマチックじゃないですか。「カッコーの巣の上で」のガム渡すシーンとか「英国王のスピーチ」とか。「リトル・ミス・サンシャイン」の長男がキレるシーンとか。この小説はそういう瞬間が好きで好きで仕方ない俺には堪らん。

 面接落ちまくりクソニートの俺としては、「口の上手い下手ってなんなんだろう」と考えてしまう。っていうかコミュニュケーション全般がもう手に負えない。お手上げです。自分の言いたい事を過不足なく伝えるのが苦手で仕方ない。俺の話すことなど結局、他の人にはなにひとつ伝わってないのかもしれないんじゃないかっていつも思う。話せば話すほど会話の意味が薄れていくなら最初から喋んないほうがマシな気がしてくる。こういう態度がそもそもいけないのかな。<述べ足り内/述べ切れ内>になって<NOVELLA例無い>になって<脳辺那井>になって、今、<もうお前とは喋ってやんねー世>やってる。と言える。

  この小説の主人公の写植屋も冒頭に引用したようにコミュニュケーション不全を抱えていて極力知らない人と関わらないように生きてるけど、そこにある意味コミュニュケーションの達人である詐欺師が無理やり介入してきて変化が生じていく。「永遠の半ばを過ぎて」が心を揺さぶってくるのは、「おれには何も言いたいことなんてない」と言っていたはずの主人公がものすごく絶妙なタイミングで、それまで誰にも話したことがないであろう自分の人生哲学を語り始めるところ。その一連の台詞が、このくだりなんだけど、何回読んでもしびれる。

おれは、岩や水の方がうらやましい。生きているってのは異様ですよ。みんな死んでるのにね。異様だし不安だし、水のなかでもがいているような感じがする。だから人間は言葉を造ったんですよ。卑怯だから、人間は。
中島らも 『永遠も半ばを過ぎて』

  「生きること」の拠る辺なさを吐き捨てるみたいに語り出す写植屋。15年間ひたすら1人で文字を打ち続けたからこそ、こういう答えまでたどり着けたんだなって。でも、それを言葉にして打ち明けた時点で、この写植屋はそれまでの人生の中にとじ込めていた自分の心情を他者にぶつけようと、世界に歩み寄ってるわけじゃないですか。そういう一瞬ってヒップホップですよね。自分の人生と折り合いがつかずに糞みたいな文章をこんなブログで垂れ流してる俺のようなボンクラがこの場面を読むと、眩し過ぎてうああってなる。

 

 この他にも詐欺師パートの無駄にリアリティある犯罪描写とか、ラリっててなお美しい作中作の文章とか見どころは多い。写植屋がオーバードーズでハイになってるとこを打ち込むワープロの文章で表現してる部分とか実験的で面白い。一人称の語りとワープロの文章が段々とシェイクされていってドライヴ感がある。「アルジャーノンに花束を」的な?(読んだことないけど)

 あとこの作品、けっこう昔に映画化されてるんだけど、残念なことにビデオしかなくてDVDになってない。youtubeで予告を見る限り原作をかなり忠実に再現してるっぽくて気になる。ただワープロのキーボードが「え?オモチャ?」って感じで笑えるほど大きい。昔ってこんな大きかったのかな。

youtu.be

 

 

余談だけど、生きてる人間が書いたとは思えない文章と言えば、笹井宏之の短歌を連想する。

あとほんのすこしの辛抱だったのに氷になるだなんて ばか者  

さようならが機能をしなくなりました あなたが雪であったばかりに

 短歌版「永遠も半ばを過ぎて」って感じがして好き。べつに笹井宏之さんはドラッグもアルコールもやっていないと思うけど、どうやったらこんな人並み外れたぶっ飛んだセンスで、透き通るような瑞々しい短歌を紡げるんだろうか。世界の裏側に隠れている暗号をひっそりと解読してるような不思議な読後感がある。

 

言葉なんてただのインチキ手品や。言葉なんてな、犬が無理矢理着せられとる服みたいなもんや。なんぼしゃべくっても誰とも繋がらへんで、でもしゃべっとらんと自分が独りやって気づいてまう。みんなそれが怖あてしゃべっとるだけや。臆病モンや、アホやでホンマ。でも犬は自分で服脱がれへん、どんなボロ服着とっても。

うめざわしゅん 「渡辺くんのいる風景」

 

 

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

 

 

 

 

人生を3つの単語で表すとしたら

 世界はもうとっくのとうに終わっている。

 フリーメイソンイルミナティが終わらせたんだ。ロスチャイルド家とかロックフェラー家が全世界のお金を支配している。ユダヤ資本が世界中の軍事・経済に根を張ってお気楽な衆愚たちを好き勝手にコントロールしてやがる。みんな早く目を覚ませよ。人工衛星が毒電波を脳内に送ってくるし、エシュロンでインターネットは監視されてるし、Googleは悪の秘密結社だ。世界の政治も三百人委員会悪魔崇拝やスカル&ボーンズやらレプティリアンが牛耳っている。レプティリアンというのは爬虫類人のことなんだって。信じられるか?俺たちはトカゲ人間に操られているんだよ。エルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンも実はまだ生きてるし、ポール・マッカートニーは実は既に死んでいる。こんな狂った世界において、たかが公務員試験に全落ちしたことに恥じらいを持つ必要がこれっぽっちでもあるだろうか。断じてない。

 

 俺史上最高に体調良くて、俺史上最悪に情緒が落ち込んでいる。

 健全な肉体に、不健全な魂が宿ってしまった。体調が良いのは、たぶん働いていないのでストレスが全くないためだと思う。大学生活は週2~3回飲みに行ってたし、肝臓に負担があったかもしれないが、仕事を辞めてからアルコール摂取する機会、ほぼなくなった。アルコール摂取をやめたくらいで何か変わるかと言ったら、とにかく痩せる。働いていた時が人生で一番太っていて、そっから1年で8キロくらい痩せて高校生の時の体重にカムバックした。夜は8時間ぐっすり眠って日中の昼寝も十分にとっている。運動不足解消のために週に一回はランニングしているし、1日おきに懸垂とスクワットをやっている。おかげで心なしか引き締まったボデーになった気がする。自分はスターリン遠藤ミチロウがステージの上で裸で仁王立ちになってるあの白黒写真のヤツが、1番カッコいい肉体だと思っていて、あれはなんであんなかっこいいのでしょうか。

 

 ただ、脳みその調子が。脳みそがとても良くない。

 気がつくとスターバックスに行って、ブログにグダグダと阿部和重のエッセイみたいな駄文を書き連ねてしまう。阿部和重のエッセイ程度なんだ、この生活は。ブログを書いている時以外はマジで何もしていない。虚無の時間。ニートとしての唯一の取り柄がギャンブルと風俗とソシャゲを一回もやってないことで、まあやるにしてもお金がないだけとも言える。BOOKOFF行くか、自分の部屋で漫画読み返したり、リビングで録画した幽遊白書を見るか、YOUTUBEバーチャルYoutuberの動画を視聴するくらいしかできない。こういう病院に行くほどじゃないユウウツが人生を蝕んでる。病院に行ったりする人からすると甘えかもしれないが。何もできないししたくない。今になってゼロ年代の空気感を無駄に体現しなくていいのよ俺。どこまで落ち込んだとしても病院に行くほどでもないのが情けない。健康優良情緒不良児。福満しげゆきの「僕の小規模な失敗」という漫画の中に好きでよく読み返す場面がある。主人公が女の子にフラれて毎日涙が止まらなくて心療内科に行ったら医者に「それはただの失恋だね」って見抜かれて薬を処方してもらえないというくだりが笑えるんだけど今は自分がそれに近い状態だ。

 

 俺史上最も充実した肉体をこんな無為な時間に浪費するのは、損失な気がする。普通の人だったら23歳ともなれば、恋に仕事に夏フェスに大忙しなんだろうな。俺はダメだ。ニートが一周年記念で巻頭カラー飾ってアニメ化まで秒読みの勢いだし。家の冷蔵庫にあるパルムとか戸棚にあるハッピーターン勝手に食べて姉に「死ね」とか言われてる。今の俺は筒井康隆風に言うなら最高級有機肥料製造機。彼女もいないし、定期的に連絡とる友達も二人くらいしかいない。LINEだってアンイストールしても全然困らないくらい沈黙を守っている。いや、公務員試験に落ちた今となっては知り合いから連絡来ても、卑屈になってうまくコミュニケーションとれる自信がない。

 

 この夏の思い出といえば、元彼女から付き合ってる時に貰った手紙を近所の公園に燃やしに行ったことくらいか。良く燃えた。風呂でも沸かせるくらい燃えてた。アシタカが手伝ったタタラ場くらい燃えてた。ソフィーの髪の毛食べたカルシファーくらい燃えてた。巨神兵クシャナさんに「薙ぎ払え!」って言われてビーム出してた時くらい燃えてた。

 

 公務員試験落ちるたびに1億円貰ってたら今頃大金持ちだぜ。

  面接なあ。無理だもんな。この世のほとんどの人間が怖いのにわざわざ面を接したくないよ。

 筋トレしていたらうつ病にならないっていう説。真偽はいかほどなんだろう。ドウェイン・ジョンソンもあんなにバッキバキなのに昔うつ病だったらしいし。筋肉と心の強さは別なのか。それにしてもドウェイン・ジョンソンになりたいと常々思う。ああいう顔全体でチャーミングに笑える人が羨ましい。アメリカのバラエティ番組でドウェイン・ジョンソンテイラー・スウィフトの「シェイク・イット・オフ」を口パクで歌いながら踊っている動画を見ると、ホールデン回転木馬に乗ったフィービーを見守ってる時のような気持ちになるんだ。高校受験に失敗した時から今に至るまでポーカーフェイス街道を爆進中の俺がドウェイン・ジョンソンの愛嬌に首ったけでヤバい。ポーカーフェイスと言えども最近はよく泣くが。(この前親に「公務員落ちてどうすんの」と言われて泣いた)

 

 俺は好きな女の子がいたりすれば、普通にそれだけで毎日楽しくくらしていけるのに。(だからthe ピーズの「好きなコはできた」って曲が好きなのだ) そういう方面のトキメキが圧倒的に足りない。こればっかりは、本当にニートには難しいものがある。マジで山伏レベルで女性との関わりを絶っているので。

 

「薔薇がなくちゃ生きていけない」と歌ったのはムーンライダーズだけど、今のどん底な精神状態の俺は素敵な文章と残虐なホラー映画がなかったら、生きていけない。

  この前TSUTAYAで「マーダーライドショー」という映画を借りてきて観た。「悪魔のいけにえ」がほぼ人生初の本格ホラー映画で大傑作だったから、それの系譜(狂人一家モノ)で選んだけど、「悪魔のいけにえ」のほうが面白かった。「悪魔のいけにえ」が抜きん出てすごいだけかしら。後半急にゾンビとかマッドサイエンティストの話になって、狂人一家の怖さオンリーで進めると思ってたからそこに物足りない感じがあったのかも。映画の本でとにかく「マーダーライドショー2」がヤバいって書いてあったから2まで見ないとダメなのだろうか。「マーダーライドショー」は日本公開版のタイトルで2の原題が「デビルズ・リジェクト」つまり「悪魔も見放したヤツら」という意味らしい。なかなかイカしたタイトルでそそられる。悪魔にすら見放されたニートとしては。

 

 前も書いたけどホラー映画の楽しさというのは、悲惨な目にあう登場人物を見ることで「これよりはマシだ」と自分の境遇を相対的に良く感じさせてくれるところだと思う。たとえ恋人がいなくて無職であっても、頭のおかしい殺人一家に出会ってないだけ俺の人生が幸せなものに思える。あと、人間の感覚を逆撫でするためだけに様々な技巧を凝らしてあって、各作品で色々なアプローチで「恐怖」とは何か?に迫っているのが興味深い。根本的に人間は「自分の死」が1番怖いと思うけど、それにどうやって映画が肉迫していくか。そういう意味で単純だけど作り手のセンスがもろに反映されるストイックなジャンルだと思う。他のジャンルより観客と勝負してるよホラー映画は。今年見た「IT」も怖くて嫌だった。まず殺人ピエロって着眼点で既に負けたよ俺。最初にピエロという概念を知ったときから怖いものにしか見えないし。怖がらせる目的で発明されたとしか思えません。

 

 それから生きるのに不可欠な素敵な文章というのは糸井重里の「今日のダーリン」みたいな文章のことで…というと嘘なんですけど。(MOTHER2は好きです)

 

中島らもの「その日の天使」(『恋は底ぢから』収録)

穂村弘の「整形前夜」(『整形前夜』収録)

坂口安吾の「文学のふるさと

舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる」の冒頭3ページ

島崎藤村の『破戒』の主人公が生徒の前で謝る場面

筋肉少女帯の「生きてあげようかな」の歌詞

竹内浩三が生まれたばかりの姪に当てた手紙

カート・コバーンの遺書

宮沢賢治の「シグナルとシグナレス

カフカWikipediaの人形のエピソード

 

 こういった文章を背骨のように大事にしてなんとか生きています。

 ブログタイトルにあげたのは俺のお気に入りの詩(というか広告コピー)でこれもまた生きる勇気が湧いてくるくらい良い。作者の一倉宏さんはコピーライターで「きれいなお姉さんは好きですか」を手がけた人らしい。

 

「人生を3つの単語で表すとしたら」

ぼくが高校生だったころ
きみに電話をかけるとしたら
児童公園の電話ボックスからだった

ガラス扉によりかかって
開いたままにして 疲れたらしゃがんで
何時間でも

「人生を3つの単語で表すとしたら」

これ 期末の英語で出た問題
タカハシ先生って変なの
ヘンだけどいい先生

ユウジだったらなんて書く?

ぼくは なんて答えたかを覚えてないよ
きみが なんて書いたのかも もう忘れた

バイクと音楽とファションにしか
興味がなかった あのころ

〜中略〜

いまの わたしなら なんてかく?
いまの ユウジなら なんてかく?

わたし タカハシ・ティーチャーのこと
好きだったんだよ ほんとはね

せんせい

せんせいなら なんてかきますか?
おしえてください

先生はちょっとつまって
それから なぜだか かおを赤くして

こくばんに かいたんだ

〜後略〜

 

 本当はもっと長い文章なんですけど。「ぼく(ユウジ)」と「わたし」それぞれの視点で高校生の時の英語のテストの問題について回想している。この抜き出し方だと分かりにくいけど、地の文の語り手が交互に切り替わって文章が進んでいきます。最終的にタカハシティーチャーの出した答えが、いつ読んでも心揺さぶってくるのですよ。こういう続きはwebで、みたいなやり口はどうかと思うのですが。気になった方は買うなり図書館に行くなりして確かめてみてください。Googleは宇宙人に監視されてるので調べたらダメです。

 

 ちなみに俺が人生を3つの単語で表すなら

Sex、Drug、Rock 'n' Rollですね。

それかNeetNeetNeet

 

 

人生を3つの単語で表すとしたら

人生を3つの単語で表すとしたら

 

 

 

世界の終わりに独りは嫌だ

 世界の終わりと言えばSEKAI NO OWARI

 人生で初めて付き合った女の子が好きだったバンド。ローマ字表記じゃなく「世界の終わり」名義だったころからのファンで、初の武道館LIVEに行くとか言ってたからかなり初期だったのではないか。それにしても「世界の終わり」っていうバンド名。初めて彼女の口から飛び出た時は度肝抜かれた。3回くらい「え?なんて?」って訊き返した。随分ふざけたバンド名だなあって。由来を聞いても「いやいやいや、それは「世界」の終わりじゃなくて「お前」の終わりだろ。勝手に世界終わらせんなオイ」って言って反論したい気持ちになった。売れた今となっては何も言えないが。ポップカルチャーにはちぎれんばかりに尻尾を降るよ俺は。

 今なら、分かる。

 今の俺がもしもバンド組むとしたら「太陽系の終わり」とか「銀河の終わり」とかそういう名前を付けてしまうだろう。実際に終わってるかはともかく自分自身が本当に人生終わったみたいな精神状態に陥ると「世界が終わる」ことしか考えられなくなる。

 「世界の終わり」というワードをタイトルに取り入れている小説も多い。

 ここで挙げた3つのタイトルはいつ読んだかはっきりしないけど、たしか3つとも世界が終わらない話だったように覚えています。「世界」というのはどこまで行っても「自分」の生きる世界であってそれが終わるときが「世界の終わり」なんだから。自分がいなくなっても、変わらず世界は在り続けるが、ある意味では終わる。そういうことなんだと思う。

 

 坂口安吾の書いた「文学のふるさと」という評論に出てくる芥川龍之介のエピソードが好きだ。

晩年の芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑みずのみ百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐かんだかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
 芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。

  救いようのない事実が、虚実を巧みに操るストーリーテラーであったはずの芥川龍之介を圧倒する瞬間。この部分は何回読んでも、感動してしまう。こんなエピソードが本当にあったかは知らないけど。坂口安吾は童話や芥川龍之介のエピソードを引用しながら「救いようのない話」についてこう言及する。

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬがけがあって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。

 

あとは、ラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」という映画。

ある日、地球に「メランコリア(憂鬱)」なる星が落ちてくるのが分かって、最終的にすべてをぶっ壊すという何の救いもない映画なんだけど。その映画の中では、星が落ちてくることを知ったときに普通の人はパニックになって自殺したり色々やるんだけど、精神を病んでいる主人公だけは妙に冷静で落ち着いている。そこには「本当にまともじゃない状況になったときは、まともじゃないやつが逆に普段通りでいられる」という皮肉っぽいメッセージが込められている。らしい。監督が言うには。

 

つまり、今の俺だ。世界が終わる系の話ばっか求めている。精神状態がそういう話にマッチしているようです。文学部だったのに、主に漫画ばかり読んで。漫画の中の「世界の終わり」の如何に魅力的なことよ。「デビルマン」「AKIRA」「ドラゴンヘッド」…はもう王道中の王道だけどちゃんと読んでないのであえてここでは触れません!にわかですいません。記事のタイトルには拝借しましたが。あえて俺だけの「世界の終わり」ベストセレクションを紹介しようと思います。

 

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

 一発目はこれしかない。これもある意味王道だけど、初めて見たのが大学4年のBSプレミアムで再放送やっていた時でその時も十分面白かったけど、今見ると何倍も面白いのは確実に俺の精神状態とリンクしていると思う。途中の「甘き死よ来たれ」という曲がかかる場面が素晴らしすぎる。「秒速5センチメートル」が「One more time, One more chance」のPVだとしたら、この映画は「甘き死よ来たれ」のPVだと思う。もちろん良い意味で。どこがいいかと言ったらまず曲が良い。劇中のアニメーションがはちゃめちゃやってわけわかんないことになってる一方で、分かりやすくて気持ちいいメロディーのPOPソングが流れていて、取り合わせとしては違和感が半端ないんだけど、これしかないって気持ちにさせてくれる。最初は後ろで小さい音で流れているのに、白くてでっかい綾波レイが体を起こすと同時に曲の音量が一気に上がる瞬間のカタルシス。何回観ても魔法がかかってる。映画自体というよりこの曲が好きなのか俺は。「秒速5センチメートル」で言うとコンビニでかかってる「One more time, One more chance」が急にでっかくなるところの盛り上がりといえば分かりやすいだろうか。俺の拙い表現力だと「秒速5センチメートル」しか引き合いに出せるものがないのだ。

なるたる

鬼頭莫宏。つい先日、読み終えて無事に虚無に叩き落された作品。なんにでも変身できる「竜の子」と呼ばれる生き物を手に入れた少年少女の話。ものすごく暗いデジモンみたいなものだ。何にでも変身できる能力を利用したバトルものかと思ったら中盤以降から話のスケールがでっかくなって最終的に主人公以外全員死ぬ。途中のいじめと拷問のシーンを読んで「この作者は明らかに精神を病んでいる」と思った。むしろそのシーンの凄惨さが抜きんでているせいでラストのインパクトが薄れている感じさえある。作中人物たちがそれぞれ異なった目的で動き回り、かつ含みを持たせた会話が多いので一回読んだだけではなにがなんだか分からない。序盤から忍ばせてある伏線も多く設定もすごく細かいから読み終えても物語が終わらないで頭の中に残る感じがする。読み終えた次の日は死んだ目で解説サイトをめぐる羽目になった。竜の子の名前にもそれぞれ由来や元ネタがあるので、「なぜこんな名前なのか」とか調べたりすると「はえ~」てなる。ただ、読み返すにしても家にあまり置いておきたくない作品でもありますね。「夢はでっかく地球サイズ」とか「未来へ贈るメルヘン」とかキャッチコピーで読者を油断させて突き落としてくるのが怖い。

ミルククローゼット

富沢ひとし作品。上に挙げた「なるたる」の作者がぎりぎりのところで、物語を商業作品にしたてあげている分かりやすさ、をフルスイングでぶん投げているような潔さがある。つまり死ぬほど分かりにくい。並行世界にワープできる病気になった子どもたちが、何にでも変身できる生命体と融合してなんかやる話だったと思う。これだけだったら「なるたる」と「ぼくらの」とハーフアンドハーフみたいで面白そうなのに。途中から並行世界の構造とか、宇宙の成り立ちの説明みたいなのが始まって「どゆこと???」と思いながら読むことになる。そして、ネットを探しても解説してくれるサイトがあまりない。最終的に並行世界を統合して新しい宇宙を生み出そうとかそういう話になった気がする。漫画なのに「何回読んでも話が分からない」という貴重な体験をさせてくれる素晴らしい作品。あと並行世界の動物のデザインのセンスが独特でものすごく気持ち悪いので是非読んで欲しい。まさに異次元て具合の造形。目とか口とか手とか、普通はこうあるべきみたいな固定観念から自由になった動物たちがいっぱい出てくるので面白い。誰も知ってる人がいないので、漫画好きの人に舐められないように心の奥にストックしてる作品でもある。「ミルククローゼット」知ってたら通みたいな風潮を作っていきたい。

世界の終わりの魔法使い

西島大介セカイ系のミニマルといった感じの作品。少年と少女、恋と魔法。まったく無駄がなくて勢いで駆け抜けてく爽快感。この勢いは書き下ろしだからかな。絵柄がものっそいPOP。こんなシンプルでかわいい絵があってよいのだろうか。この人の作品の中で一番分かりやすくまとまっていて面白いと思う。「世界の終わり」というか厳密には「世界がもしすべてコピーだったら?」系の話だったような。魔法が当たり前の世界で、魔法が使えない少年が魔女のために頑張る話。恋が全てを解決してくれるから、それでいいんだという気しかしない。めっちゃ盛り上がる場面で主人公が発する「魔法なんて信じない。でも君は信じる。」は超パンチラインなのに、著者の他の本のタイトルに使われて悲しかった。この話が一巻でシリーズ化されているけど、俺はこの作品が好きすぎるので続きを読む気になれないのです。

 

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン

とりあえず、めっちゃブ厚い。俺が持ってる中であまり読み返さない漫画暫定一位はこの作品である。これも「世界の終わり」系の王道だけど。とにかく絵が濃いキャラが濃い話が濃い。「トシモン」というテロリスト二人組と「ヒグマドン」という熊のバケモノが日本をめちゃくちゃにして最終的に地球が滅ぶ。今読むと災害やテロに対する政府の対応が群像劇風に描かれるのが「シンゴジラ」っぽいなと思う。もちろん「シンゴジラ」より先にこういう描き方する新井英樹さんの先進性が凄い。テロリストの「トシ」の母親が追い詰められて自殺する場面や、「トシ」が潜伏した家の親子を惨殺する場面があったりして色々容赦ないなあと思う。個人的には首相のユリカンというキャラが好きだったけど、初登場のキレっぷりをずっと維持してほしかった。作品全体に「全部ぶっ壊してやる」的な野蛮な衝動が匂い立っていて、それがこの作品を傑作足らしめているけど、読むには相当エネルギーと根気がいるような。重みがすごい。物理的にも物語的にも。

 

 バイオーグ・トリニティ

俺の一番好きな小説家が初めて連載で漫画原作を手掛けた作品!しかも作画が大暮維人ときたもんだ。大暮作品は読んだことないから、ほぼ舞城王太郎目当てだったけど、大学一年に初めて発売された一巻を読んだときのあの衝撃は凄まじかった。こんな緻密な絵で舞城のストーリーが描かれるなんて、と。そっから発売されるたびに近所の本屋さんへダッシュしたものでした。最終巻が発売されたのが今年で、十代の終わりから23歳まで最高に幸せな漫画体験をありがとうございました、と言いたい。リアルタイムで連載してたからひときわ思い入れが強い。これもかなり容赦なく世界が終わる話で。セカイ系っていうかヒロインそのものが世界で、それに恋をした少年が世界の秘密に挑むといった感じ。舞城の青臭いモノローグが好きだったからそれがふんだんに盛り込まれてるのと、学生が主人公で友達と四苦八苦しながら世界の秘密を解き明かすみたいなワクワク感があってすげーよかった。キャラ同士のくだらない会話がいちいちセンスある。舞城作品によくある「愛とは何か?」「世界とは?」みたいな哲学的な問いを上手く漫画に落とし込んでて、控えめにいって最強の原作・作画タッグだと思いました。(大暮さんは連載終了後すぐに『化物語』のコミカライズやっているけれど、次はメフィスト賞つながりで佐藤友哉鏡家サーガやってくれよ)

 

劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]
 

 

 

新装版 なるたる(1) (KCデラックス アフタヌーン)
 

 

 

 

 

 

 

 

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)

 

 

 

 

おもろうてやがて悲しきブログかな

 Everyday is the 土砂降り。Everything is nothing。そんなもんだろう。

 ニート人生を揺るがす公務員試験と教員採用試験が終わり、ブログを更新するモチベーションもどこかへ消えていった。数ヶ月、ごちゃごちゃと自分の人生について動かなければならなくて非常に疲れてしまった。疲れた割には、あまりにも得るものもなかった。というべきか。自分の限界をことごとく思い知らされましたよ。基本、自分がどのくらいのレベルの人間かなんて知る機会もないし、できれば知りたくもないが、こういう白黒はっきりつける場所に連れてこられて、国家権力に「お前はこの程度だよ」と突き付けられてしまったら、もう本当にどうしようもないじゃないですか。ブログの文章を2つ書いたくらいで「なんかどうでもいいな」という気持ちになった。ニートとして、失敗するべく失敗し、絶望するべく絶望している。不確かな人生の中で、俺の人生のしょうもなさだけが確固としてゆるぎない。

 

 村上春樹神宮球場でヤクルト戦を見ている時に小説を書こうと思い立ち、『風の歌を聴け』を執筆したそうだが、俺は大学3年生の時に「時間・空間・物質の科学」という授業を受けながらこのブログを開設した。その時、一緒に授業を受けていたサークルの後輩にブログのURLを考えてもらった。俺の「ねえ、なんか適当な英数字でカッコいいのちょうだい」という無茶ぶりに対し、「じゃあworld of momoshiroというのはどうですか」と後輩が案を出してくれたのだ。俺の名前にも後輩の名前にも「ももしろ」という言葉はかすりもしないのに、なぜ「ももしろ」なのか。後輩曰く「面白い」→「オモシロ」→「ももしろ」らしい。その時のブログタイトルは今と違っていて適当につけた「コンテンツ化された苦悩」なる名前でやっていた。頭の悪い大学生の背伸び感がそこはかとなく漂っていていいタイトルだと思いますが。作ってからしばらく放置してて、大学4年生で就職活動に手こずり始めた時に現実逃避に愚痴を書き殴るようになったのが、このブログのまず最初のスタートラインだったのでした。今とあまり変わらんな。

 

 ブログを書き始めた当初は、「アフィリエイト収入で働かずに生きていけるんじゃないか」と思っていたが、アクセス数が完全に死んでいたのと、アフィリエイトのやり方が分からなかったので、そもそもお金になるわけがなかった。「コンテンツ化された苦悩」はまさに苦悩を読者に向かって愚痴り続ける不毛な場所だった。アフィリエイト広告の貼り方を覚えてから露骨に商品紹介する記事を量産したりして、今となっては野井戸に飛び降りて異世界に行きたくなるくらい恥ずかしい。お金欲しさに完全に血迷っていたのだ。買った服とかポロシャツの紹介してた気がする。自分めっちゃダサイのに。CAMBERのポケットTシャツとか。REDKAPのパックT、LLBEANのアノラックパーカ、あとは欲しいスニーカーのこととか。執拗なプッシュ戦略が功を奏したのか、本当に稀にだが、なにか買ってくれる人がいてびっくりした。

 

「日東 マスキングテープ No.720 15mm×18m 1本8巻入り」

「新装版 パジャマな彼女。(上) (アフタヌーンKC)」

「UnitedAthle 5.6オンス ロングスリーブ Tシャツ」

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CITIZEN 高精度温度湿度計・時計付ポップなカラーで小型のモデル ライフナビプチA」

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キユーピー シーザーサラダ ドレッシング 1000ml」

 

 こうして「コンテンツ化された苦悩」時代のアフィリエイトのレポートを見返してみると、意外と俺はファッションブログの才能があったんじゃないだろうか。なぜかオススメした覚えのないユナイテッドアスレのTシャツをリピート買いしている人もいる。完全にブログ経由でAmazon開いて、別のもの欲しくなったパターンだろ。あとVAIOスマホ関連商品買ってるやつ!保護フィルムと手帳型ケース買うってウキウキだな、おい。マスキングテープ、賞状100枚、温度計に至っては何で逆に俺のブログから飛んでそれ買ったの?という気持ちになった。どういう職業の方が読んでたんだよあんなブログ。事務員?校長?「パジャマな彼女」って今アニメやってる「はねバド」の作者が以前描いていたジャンプの打ち切りちょいエロラブコメ漫画だよね?チョイス渋すぎないか。俺読んだことないけどさあ。なんで下巻は俺のブログから買ってくれないんだよ。上巻つまんなくて買うのやめたのか、それとも面白すぎて走って買いに行ったのだろうか。一番謎なのがシーザーサラダのドレッシングを1リットルも買ってる人!なんで俺のブログから野菜の味付けるための調味料を注文しようって気持ちになったんだよ。その気持ちの変遷を事細かに知りたい。1リットルて業務用やんけ。絶対冷蔵庫で邪魔になるって。一番力を入れて書いたのは「ラコステフレッドペリーのポロシャツどっちがカッコいいか?」みたいなやつなんだけどなあ。全く反応がなくて切なかった。買えよ。

 

 「コンテンツ化された苦悩」にも飽きて、しばらく放置した後に、読み返したらあまりにも文章が稚拙すぎて、それまでに書いた文章を全部消して今のタイトルである「憎み憎まれて生きるのさ」に変えたのでした。twitterをブログと同期させたのはいつだったろう。いつ取ったか分からないTwitterサブアカウントを「ももしろ」の名前に変えてブログと舞城王太郎専用アカウントとして運用するようになって…(ブログだけの読者には分からないと思うが、Twitterもやっているのだ。)「コンテンツ化された苦悩」と「憎み憎まれて生きるのさ」の間でもいくつかタイトルを変えた記憶があるがどうでもいいようなネーミングばっかであんまり覚えてない。タイトルからこのブログの基本コンセプトである「ニート」を全面に押し出そうとして失敗したような覚えが。あんまりニートとかいうと知り合いにバレた時死ぬかと思ってやめたんだっけ。ブログタイトルは一度「あれ?」と思うと無性に変えたくなるので始末が悪い。なるべくならセンス良く思われたいではないか。ネーミングセンスという牢獄に捕らわれていた俺のブログタイトル行脚に終止符を打ってくれたから、小沢健二は凄い。もうこれで変えないと思います。多分。

 

 新しくブログをやり直す。「コンテンツ化された苦悩」から全部消して何を始めたかったのかと言うと、仕事を失くし、恋人に別れを告げられ(というかLINEをブロックされ)俺はとにかく承認欲求を満たしたかったのだった。心が引き裂かれるくらいさみしかったのである。全然家に帰らないキャバ嬢が飼ってるパピヨンくらいさみしかったのだ。会社をくだらない理由で短期離職し、恋人には愛想を尽かされ、自己肯定感が地に落ちた俺をこのブログだけが横もれ防止サイドギャザーのように支えてくれていた。アフィリエイト収入がどうでもよくなるくらい、社会との接点が欲しかった。村上春樹の言っていたように文章を書くということは自己療養へのささやか試みなんだろうか。

 

 自分の書いた文章を誰かが読んでくれるのは、気分がいい。なぜなら承認欲求が満たされるからだ。「いいね」や「リツイート」された日など1日中鼻歌が止まらないくらい嬉しい。感想書いてくれる人とか、「コンテンツ化された苦悩」時代にはそんなことしてくれる人いなかったので、「父なる神かよ」と思う。こんなニートの文章を読んでいただけるなんて倒錯的な喜びがありますよ。中学校の国語教師に「お前の文章は読むに堪えないアスホールだ。プッシー野郎」みたいなこと言われた俺がこうしてブログを書いているなんて。

 

 承認欲求を満たすために書いているとはいえ、たまに「あなたの文章は面白い」とかそういったことをDMで送ってくれたりする人がいて、そこまで行くと自分の文章力とはかけ離れた世界のことのような気がして、「この人は俺のブログと誰かのブログと勘違いしてらっしゃるぞ」と思ってしまう。熱烈に褒めてくださる方に限って急にTwitterのフォロー外して音信不通になったりするから「ああ、勘違いに気づいてくれたんだな」と思ってメンタルを守っている。DM送る前にブログとアカウントをちゃんと確認してください。褒められるのはまんざらでもないけど、ていうか嬉しいけど自分の文章は面白くない。俺が客観的に見てこのブログでILLだなと思うのは一貫して、「人生への向き合い方の上手くいかなさ」みたいな、そういうものだ。世間で生きてる人間が普通にこなしている就労だとか恋愛だとかそういうものが当然のようにうまくいかずズタボロにされて死にそうになってる人間の書くたわごとだ。こんなのは。そういうのを「面白さ」とカウントするなら誰でも仕事を辞めたり恋人と別れたり、その両方をすればいくらでも書けると思う。文章の面白さよりも如何に自分がダメなのかを再確認するためにブログ書いたりしてる。へらへら笑いながら書いた文章でなぜか「大丈夫ですか?」と心配されたり、涙ぐみながら書いた文章に「めっちゃ笑いました」と言われたり、書き手の気持ちとは全く逆の感情が伝わったりすることもあるし俺はやっぱり文章が下手なのか。自分で書いてても何が面白いのか分からなくなるし。クオリティにしても適当に書き殴ったのが評判良かったり、力入れて書いたのに全然反応がなかったり、ブログって変だなあといつも思う。承認欲求満たせればなんでもいいんだけど。

 

 とりあえず俺が言いたかったのはこのブログを読んだらポロシャツを買ってほしいということだけなんだな。(或いはシーザーサラダのドレッシングでもいい)

 

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