コンテンツ化された苦悩

憎み憎まれて生きるのさ

23歳ニートの人生がダメになっていくドキュメンタリーです

流水大説と舞城王太郎の『九十九十九』について

このブログ読んでる人、限りなく少ないのでネタバレ全開で書かせてもらいます。ネタバレしようがしまいが舞城王太郎の『九十九十九』読んでない人はここに来ないだろう。おそらく。というかネタバレできるほど自分が正確に内容を把握しているかも怪しい。このテーマで書くにあたって去年の年末からJDCシリーズを『コズミック』→『ジョーカー』→『カーニバル・イヴ』→『カーニバル』→『カーニバル・デイ』と地道に読破してきて、ほんと辛かった。半年かかったけどようやくブログ書ける。JDCしか読んでないけどあの『カーニバル・デイ』読んだんだから「流水大説」語ってもいいよね。

 

 舞城王太郎の『九十九十九』初めて読んだのはいつだったかはっきり思い出せないけど高校生くらいだったと思う。表紙のタイトルロゴが遊戯王キラカードみたいでなんとなくダサい講談社ノベルスのあれ。その時は、舞城王太郎を追っててたどり着いたから清涼院流水のJDCシリーズは未読の状態で読んだのだけれど、まー難しい。舞城王太郎の著作の中でも指折りの難解さの作品だからしょうがないけど。グロいし、エロいしなんじゃこりゃって思って読破してからあまり読み返さなかった。JDCの登場人物を借りて書かれた小説って事だったけど、それまで持ってた舞城王太郎のイメージて物凄く自我が強い作家て感じだったから「他人の小説のスピンオフとか似合わんなあ」って勝手に思ってた。俺の知った順番的には舞城王太郎清涼院流水って形なので、JDCシリーズ読んだ後も気持ち的には『九十九十九』が本編て感じがする。

 

 ものっそい時間かけてJDCシリーズ(彩紋家事件以外の)ようやく読み終わった後に、今回こうやって『九十九十九』再読したけど、凄まじい読みやすさ。なんてったってたった600ページだし。一段組みで文字大きいし、て思う時点で完全に『カーニバル』に調教されてるな。一人称だし文体もぶっ飛んでてサクサク読めて「あゝ舞城王太郎...」ってなった。清涼院流水は意図的に『カーニバル』3部作を読みにくく書いてるみたいなんだもの。

「この世界が推理小説だと仮定すれば、わかりやすいかもしれない。これだけ意図的に本物と偽物の入れ替わりを連発されれば、精読している読者でもない限りは、誰が本物で誰が偽物か、整理できなくなる。流し読みしているほとんどの者は、どいつが本物かわからなくなり ―すべての真偽がどうでもよくなることは容易に予想できる。(中略)読書であれば、本を放り出したくなるほどに複雑な状況を敢えて作り出すことで、鋭い思考も麻痺させる。深く理解できないようにするのが狙いであろう」

『カーニバル・デイ』

とかいきなり登場人物が語ってくるからもうお手上げじゃない?読者に読み流される前提で書いてるって作家(これは登場人物のセリフだけど)としてどうなんだ。など思わなくもない。もし作者が一貫して『カーニバル』をこういうスタンスで書いてるならちゃんと隅々まで楽しんでる流水大説のファンはどうすりゃいいの。精読をしないのが意図された読み方だろうけど、逆に真面目に読んでいるファンは入れ替わりの仕掛けに途中で気づいたりするのか。俺はあれを読んだ人の大半と同じように圧倒的な情報の洪水に「おいおいマジか。ついてけねー」って精読を諦めてトリックに騙されたっていうか「もう誰でもいいから早く終わらせてよ」という境地に達したわりと序盤で。まんまと清涼院流水の手のひらの上で踊らされた。

 

 舞城王太郎の『九十九十九』も話の分かりにくさに関してはどっこいどっこいで、構成がマトリョーシカのように区切られたエピソードの一つ一つが入れ子構造になってて…っていうこの説明いらない?読んだことある人にとっては「知ってるよボケ」って感じになりそう。話がが進むたびにそれまでの話が清涼院流水なる人物によって書かれた小説になってそれが現在の話の主人公である九十九十九のもとに届けられるという設定。『九十九十九』自体が作中作として扱われることで現在の章の九十九十九と読んでいる読者がメタ視点を共有することになる。『コズミック』の濁暑院溜水のあれが一話ごとに行われている感じ。それに加えて途中で九十九十九が2回タイムスリップしてエピソードの順番が入れ変わったり、時間を遡った影響で九十九十九のコピーが現れたりして色々錯綜するから難しい。高校生に読んだときはここらへんから「あ、もうワカラン」モード突入して終わった。

 

 とりあえずざっくりどんなお話か整理していく。

第一話

 九十九十九が生まれる。美しすぎる美しさで周りの人を失神させまくる。育ての母親である鈴木君に虐待される。鈴木君が虐待のせいで捕まって西暁町の加藤家に引き取られて育つ。引き取られた家の子どものセシルとセリカに虐待される。セシルとセリカが自分たちの産まれ直し(殺した女性の腹に潜り込んで膣から出てくる)を決行する。九十九十九はその偽装工作に近所の四人家族を殺害してカモフラージュする。殺したはずの死体から年老い九十九十九が出てくる。

第二話

 加藤家を出た九十九十九が梓、泉、ネコという名前の3人の女性と暮らしている中。清涼院流水から「第一話」が届く。謎の焼死事件を解決する。同棲してる3人が同時に妊娠する。数か月後にその3人を殺してお腹の中の子ども(「寛大」「誠実」「正直」と名付ける)を取り出して、また旅に出る。

第三話

 栄美子という女性と「寛大」「誠実」「正直」と暮らす。この話では栄美子がこの三人を三つ子として産んだことになっている。清涼院流水の「第一話」と「第二話」が届く。名古屋で起きた連続首狩り事件を捜査する。犯人の家で殺されそうになるがセシルが助けに来てくれる。なんとか犯人を殺した後に深手を負ったセシルにとどめをさす。清涼院流水に会うために幻影城に行くことを決意する。

第五話

 りえと三つ子と暮らす。お腹の中から講談社ノベルス九十九十九』が出てくる。セシルを殺す。調布の同時火災事件を解決する。隕石が地球に落ちてくる。その影響でワームホールが発生し過去へタイムスリップする。

第四話

 義母と有海と三つ子と暮らす。セリカと共に調布連続美女バラバラ事件を解決する。幻影城にたどり着く。「清涼院流水の世界」の九十九十九と対決する。

第七話

 義母と多香子と三つ子と暮らす。クロスハウスで起きた殺人事件を捜査する。捜査の途中で自分の真の姿を知る。竜巻に巻き込まれて二度目のタイムスリップをする。

第六話

 義母と有紀と三つ子と暮らす。タイムスリップでやってきた二人の九十九十九と出会う。オリジナルの九十九十九を二人目の九十九十九と協力して殺す。義母の正体に気づく。この世界の神の正体に気づく。西暁町に帰ることを決意しつつ家族団らんを楽しむ。

 

 このあらすじ未満のちんけな文をひねり出すためだけに今スターバックスで二時間くらい居座ってしまっている。隣の席の爽やかな大学生カップルが就活の話しながら楽しそうに夏の予定を話し合っていてニート泣きそう。とりあえずほんとにざっくり言うとこういう話なんですな。書き出してみると序盤の九十九十九鬼畜すぎる。これだけじゃなくて義理の弟であるツトムが名探偵「大爆笑カレー」になったり、随所に創世記とヨハネの黙示録の見立てが散りばめられていたり、講談社太田克史が死んだり生き返ったりしてるんですけど、俺の文章力ではうまくまとめられないので勘弁してください。この小説の最大のネタバレしますと、物語のすべてが三つの頭を持った奇形児として産まれた九十九十九が生み出した「妄想プログラム」だったていうことですよ。この「妄想プログラム」を通じて論理的な思考を成長させることにより、いつか九十九十九が妄想から脱出することがあらかじめ設定されている。

 論理的な思考力を鍛えるために妄想の中で殺人事件を解き色々な女の子と付き合う必要があったのだと明かされる。ここは何回読んでも「おお!」と思う。高校生の時に読んだ時は書かれてる話のほとんどが分からなかったけどこの身もふたもない設定に衝撃を受けた。『ドラえもん』が実は植物状態のび太が見てる夢だったっていう都市伝説に近いおぞましさを感じる。「素顔を見ると美しすぎて失神する」が自分の奇形から目をそらすための現実逃避だった、とか原作と真っ向から対立する設定ぶち込むなんて容赦ないな。『カーニバル・デイ』の中でもちらっと「綺麗は汚い、汚いは綺麗」理論で九十九十九の美しさに懐疑的な指摘があったけれど。

 ひょっとしたら、九十九さんは誰よりも「醜い」のかもしれない。単に我々が「美しい」と錯覚させられているだけで、本当は失神してしまうほど醜悪な顔なのかもしれない。

『カーニバル・デイ』

 

 清涼院流水のJDCシリーズを読んだ上で『九十九十九』を今回読みかえしてみて新たに気づいた点などはあんまりない。『コズミック』まで読んでれば、九十九十九というキャラの大体の立ち位置つかめるし。セシルとセリカが「犬神夜叉」「霧華舞衣」を名乗ってるのはJDCシリーズ内で出生の秘密が明かされてないからなんだなと思ったくらい。あんなに苦労して『カーニバル・デイ』まで読んだ意味よ。『九十九十九』がひたすら九十九十九の内面を掘り下げていく話なのに対して、JDCシリーズの中だと九十九十九はあくまで登場人物の一人としてうっすら描かれるだけだから、まったく別ジャンルの話だと思う。九十九十九も『コズミック』から『ジョーカー』『カーニバル』になるにつれどんどん出番減っていってるし…。しまいには死ぬし…。「作者の意図を知ることのできるメタ探偵」という設定自体が舞城王太郎の描きたいものを書くのにちょうどよかったのかな。

 

C 了解です。次は……とまた俺か。『魅惑のミステリア』。千九百枚。疲れた。親殺し子殺しがテーマだから僕のツボなんだけれど辛かった。出だしは面白くて期待したんだけれど、どんどんトンデモ系になってしまう。パニックもののような話もあり、途中でどうでもよくなっちゃう。

D 以前読んだ話も○○○○○○○が犯人だった。

C 今回は聖書の見立て殺人。世界各地でいろんな事件が起こる。で、海王星Dという名前の究極の名探偵が大活躍。

D 前も出たよ。その探偵。あとルンババ12っていうのも出てくるでしょ。

C それだけじゃないぞ。新キャラは、その名も「大爆笑カレー」。インド人じゃないよ。落語家の師匠がつけた名前らしいんだけれど。

D こういう設定を聞くと、某作品の影響を受けてると思うでしょう?ところが、この投稿者の方が先なんだよ。だからこれは某作品の源流?なのかもしれない。

J (立松和平調で)お互い知らないところで流れてたんですねぇ。

 講談社 小説現代メフィスト 原稿募集座談会第15回より

 舞城王太郎メフィスト賞ができる前から講談社に持ち込みしてたっていうのは舞城ファン名乗るからには知っておいてほしい豆知識なのですけど清涼院流水がデビューする前から名探偵勢揃いのトンデモミステリ書いてたってのは超気になる。『煙か土か食い物』以前のボツった小説めっちゃ読みてー。講談社入ったら読めるのか?あと舞城王太郎より清涼院流水の方が年下っていうのは初めて知った。清涼院流水のがデビューだいぶ早いから年下感薄い。もしかしたら第二回メフィスト賞清涼院流水ではなく舞城王太郎だった可能性があったのかもしれない。本人はどう思ってるか分かんないし勝手な想像だけど、「俺のが先に考えてたのに…」とか「俺より年下のくせに」とか「こいつの文章より俺のが上手いのに…」とか思ったりしないのかな。少なくとも俺が舞城王太郎だったら絶対思う。清涼院流水のねちっこい三人称の文体とあのドライブ感あふれる文体って真逆だけど不可能犯罪と名探偵だらけって発想に行きついたの面白いな。まあ、こういう背景もあって一概に舞城作品について「清涼院流水の影響が~」とか言いきれないのが難しいところ。

 

「JDCトリビュート」も俺マジうんざりした。清涼院流水、皆読んでるか? 「JDCトリビュート」書いてくれって頼まれること、ちゃんとリアルに想像してみ?はあ?マジで言ってんの?と俺は思ったよ。

「JDC」なんて結局のところ名探偵がたくさん集まってるだけでどうでもいいし、清涼院流水なんて小狡いだけでくだんないし、まあとにかくちっともモチーフに興味がなかった。でもね、また俺はアホだった。俺の目の前にあった問題は「JDC」でも「清涼院流水」でもなかった。俺が手にしてた俺個人の問題は、これから他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくるっていうもっと大きな、根本的な問題だった。

俺はマジで自信があるからね、俺の「JDC」、「ミステリー」としても「純文」としてもかなりの評価がでないとおかしいと思う。

「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって」愛媛川十三

  上に引用したのは舞城王太郎愛媛川十三名義で書いた評論なんだけど、愛憎入り混じってる感じがかわいいと思う。あの傍若無人な愛媛川先生が言ってるだけで舞城王太郎本人がこう思ってるとは限りませんが。(「龍の歯医者」のコメントとか見るとめっちゃ常識人なのに)「名探偵が集まってるだけでどうでもいい」とか「清涼院流水なんてくだらない」とかぬかしおるよ。よくこれOK出たな。さすが奈津川の三男というほかない。あえてこの愛媛川=舞城だとすると『九十九十九』を書くにあたって持ち込まれたテーマは「他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくる」ことだったから「JDC」の名探偵オンパレードが封印されて逆に九十九十九がひたすら自分と向き合う内向的な作品になったのだと推測される。めっちゃ強引に喩えると『九十九十九』がTV版エヴァ最終話で、『カーニバル』はエヴァ旧劇場版みたいなそういう関係。清涼院流水流のひねった言葉遊び、恐ろしく雑な見立ては『九十九十九』に受け継がれてるけど、基本的に「JDC」はマクロな視点で強烈なブチかまし(『コズミック』でいう密室卿の犯行予告とか)があって「犯人は□□と見せかけて○○と見せかけて△△と見せかけて××……」っていう大量死による見立てとどこまでも追いかけても影の真犯人がいる陰謀論的な世界観だけど、『九十九十九』は正反対に派手な事件が起きていくけどどこまで掘り下げても「自分」しかいないミクロな視点で語られる。「真実は最終的には絶対に手に入らない」からすべての可能性を追うなんて不可能だしキリないよって言って諦めちゃう(これは『ジョーカー』も最終的にはそういうオチだった)し、作中の世界が九十九十九による妄想なので何度も世界ごとやり直して物語られる。そういう意味で言うと清涼院流水の「JDC」が個人を世界のために消費していく物語で、『九十九十九』が世界を個人のために消費していく物語なのかも。

 

 より『九十九十九』の理解を深めたいなら中俣暁生の『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』を読むことをお勧めしたい。先に引用した愛媛川十三名義の評論や舞城王太郎の書き下ろし短編もついてるしお得。本のタイトルになってる評論は「青春小説」と「探偵小説」を結び付けてすごく大きな流れを論じてて興味深い。言ってる事全然分からないけど。とにかくこの人は「青春」という言葉が文学的に「成長」と共に表現されていたのは第一次世界大戦までで、それ以降は成長したとしても「成熟」にたどり着くことができなくなってしまったので「青春が失われた」→「失うものは何もない」→「大人になりたくない」という風に若さの全肯定へと移り変わっていったと指摘している。昔は「大人になりさえすればゴール」だったのが「大人になったとしてもゴール(成熟)にたどり着けない」だったら「いつまでも子供でなにが悪い?」と。だからただ単に子どもが大人へと成長することを描いただけでは「青春」というもの表現し切れなくなったために新しい形の青春小説が生まれたと主張。それがポール・オースター村上春樹を初めとする新世代の作家の生み出した探偵小説の手法を借りた「アンチ青春小説」と呼ぶべきもので、「形式と内容が不可分であり、小説についての定義を内包し、作品自体がそれを実現しているような小説」のことだと言う。それは良質なミステリーのように文章のすべてに小説を成り立たせるための意味を持たせなくてはいけなくて、従来の成長や成熟を前提とした「青春小説」に批判に成立するのが「アンチ青春小説」と呼ばれるジャンルだ。この「アンチ青春小説」は語り部である主人公が探偵役を担って小説を書く動機を解きあかしていく。小説を書いているのは語り部なので犯人も自分、依頼人も自分、探偵も自分、記述者も自分。うまく説明できないのだけど「何故この小説が書かれるべきであったか?」という謎を主人公が解決させていくメタ的な構造を有している。筆者に言わせるとどんな手法で描かれようが「青春小説」自体子どものお遊びにすぎないので早く「鍵のかかった部屋」=「頭蓋骨の内側の部屋」を解体する新しい小説を書いてみては?と提案する。で、最後に作家へ

◎「青春小説」を殺害してください

◎そのとき、探偵小説の手法をもちいてください

 

 という内容の依頼状を突き付けて論が終わる。この評論を受けて舞城王太郎が返事として『僕のお腹中からは多分「金閣寺」が出てくる』という短編を書いてるんだけど、その短編より『九十九十九』のが「アンチ青春小説」してるような。中俣暁生が何をもって「青春小説の殺害」て言っているのかフワッとしててつかみきれなかったんだけど、『九十九十九』自体が自分の脳内からいかに脱出するかをシミュレーションしてて「鍵のかかった部屋」=「頭蓋骨の内側」の解体を目指す作品なのかなと思った。「形式の強度」っていうか最後まで読めばこの小説がなんで複雑な入れ子構造でなければいけないのか明かされて小説自体の仕掛けを主人公が読者と共に発見するっていう仕組み。犯人=探偵=依頼人=記述者の関係がこれ以上ないくらいシンプルに提示される。最後に迫られる選択も要約すると「辛いことが待ってる現実」か「自分にとって都合のいい妄想」どっちかを選ぶのかってそれエヴァTV版やん。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」やん。3人になった九十九十九の内オリジナルが「こんな都合の良い世界ぶっこわして成長しよう。さっさと現実に戻ろう」っていう戦前の「成長すればゴール」=成長第一主義の考え方で、二人目に生まれたほうは「成長して現実に戻ったところでいいことなんて何もないんだからこのままでいようぜ」=成長の先にある成熟を信じない現状肯定による「大人になんかなりたくない」という考え方に沿って行動している。この2人は中俣暁生のいう近代における青春の変遷をそのままなぞってるわけで、最終的に答えを出す3人目の九十九十九はそれを踏まえてどんな答えを出すかというと、「いつか成長しなくてはいけないけど、今この瞬間の世界も受け入れる」っていう見ようによっては優柔不断に思える決断を下す。この決断がたぶんあの時代の「アンチ青春小説」の出した答えの最新版だったのかもしれない。

 

 このラストシーンについては東浩紀が『九十九十九』についての評論で熱いこと言っている。

九十九十九』の最後の段落は「だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる」という文章で始まっている。「この一瞬」の協調は、そこで舞城が問題にしているのが、もはやトゥルーエンド(現実への脱出)でも永遠のゲームプレイ(虚構への自閉)でもないことを示している。三人目の九十九十九が選んだシナリオは、グッドエンドに導かれるかもしれないし、バッドエンドに導かれるかもしれない。しかし彼はすでに、梓でも栄美子でも有海でもりえでも多香子でもなく、有紀を選んでいる。そして、また、たとえ未来において不幸な展開が待っていたとしても、彼がそのシナリオであるとき幸せに包まれたという、その「楽しすぎる」経験は経験として残る。三人目は、現実でも虚構でも、物語でもメタ物語でもなく、その現在の選択の事実だけを信じる。「よく見ろ!目の前のものをよく見ろ!」と彼は叫ぶ。『九十九十九』を締めくくる家族の団欒は、主人公の結論を先送りする消極的な場面としてではなく、そのような積極的な意見表明の場として読み解かなくてはならない。

ゲーム的リアリズムの誕生』 

  一番盛り上がってるところを長々と引用してしまった。

 あのラストは、読んだ人それぞれが勝手に解釈すればいいと思う。俺は愛媛川十三の書いてた「他人の世界を自分の中に引っ張り込んでくる」っていうその一文が全てかな、と思う。冒頭で「次会ったら絶対殺す」という予言をして実際何回も殺してるのに第七話で殺さなかったり、現実で自分を虐待していた鈴木くんを義母という形で自分の物語に取り込んでいくとかそういう形で「他者を受け入れるか」って問題をなんとか解決していこうとしてたんだよ。だって最初の第一話の段階で九十九十九が本気で心許してたのってツトムくらいしかいなかったんじゃないの。第二話でも普通に恋人もズバズバ殺ってるし。三つ子を育て始めてからようやく「人の命大事にしよ」って感じになっていった。その三つ子も現実において自分がこういう風に愛されたかったって願望の裏返しだと思うと切ないんですが。っていうことを考えながら書いてたら一週間が過ぎました。ひさびさにものを考えすぎて頭が痛い。あと、高校の時に聖書勉強していたので聖書の見立てについてなにか言うことないかな~と思ってたけど、これもなかなかハードルが高いし真面目に授業聞いてなかったのでそもそも聖書のことあんま覚えてなかったので書けません。

 

 ネット上の色々な人がためになる文章をあげていたので、そういうの読んじゃうと今書いている自分の文章の稚拙さに目をそむけたくなる。頭のいい人を引き付ける何かがあるのかね…。3回目にしてようやく九十九十九の増えた仕組みを理解した系の残念な脳みそなんでしょうがない。あと『九十九十九』はミステリ舞城にしては珍しく誰も(実際には)死なない話だよね。そういう意味でも40億人殺す清涼院流水とは真逆。

 

 あと今回読んでもいまだに、加藤順子さん殺したのが誰なのか分からないんですけど~。セシル兄妹なの?九十九十九なの?刀とモノポリー的に九十九十九じゃ無理だと思ってたんだけど、第三話で栄美子が殺したのは九十九十九って言ってて、「は?」てなる。センター試験国語98点マンだからってバカにしないで。

 

crmg.me

 

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

 

 

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

 

 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 

 

『カーニバル・イヴ』『カーニバル』『カーニバル・デイ』を読んだ。

 清涼院流水の『コズミック』『ジョーカー』に続くJDCシリーズの3作目の長編「カーニバル」をようやく読み終えた。気が遠くなるほど長かったような気がする。なんでこんな時間かかってしまったんだろう。無駄に3冊セットだし…。『イヴ』が300ページ、『カーニバル』が800ページ、『デイ』に至ってはまさかの1000ページ超え。もう新井英樹の『真説ザ・ワールド・イズ・マイン』並みにブ厚くて持ち運びが不便でしょうがなかった。しかも講談社ノベルス特有のぎっちり2段組みでさあ。これで2000ページだと原稿用紙換算だと何枚なのか。4000枚?いくらニートで時間あるとはいえきつかった。そもそも清涼院流水そこまで好きじゃないのにですよ。数ヶ月もの間これが「読まなきゃいけない本」として心の中に鎮座してる苦しみたるや。分からないでしょうね、あなたには。

 

 今までの人生で一番読むの大変だったの小説はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。上巻が鬼門すぎて高校生の時に買って読み終わったの大学卒業した後だったくらい読むの大変だった。でも、今回『カーニバル』読んで分かった。俺は本当の地獄を知らない甘ちゃんだった。小説を読んでここまでしんどくなったこと卒論で『源氏物語』読まされたとき以来かもしれない。(結局『源氏物語』は読むの断念してしまって読み終えずに卒論を書くことになったのですよ)読んでも読んでも終わらない。人いっぱい死ぬ。途中真剣に窓から投げ捨てようかと思った。

 

 読破すること自体がネタになる本はいろいろ存在すると思う。『失われた時を求めて』『フィネガンズ・ウェイク』『非現実の王国で』『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』とかさ。でも、清涼院流水の『カーニバル』はネタになるの?っていう。この日本に『カーニバル』全部読んだ人って超マイナーじゃないすか。大半の人が「清涼院流水?知らねえよ」て感じじゃないすか。ブログに書いたところでバズるはずもないじゃんすか。てか仮にバズったとしても読み終える苦労とバズることがはたして釣り合いとれているのかも分からねえ。俺がこの作品を読み終えるのがいかにつらくて大変だったか懇切丁寧に説明したところで読んだことない人に伝わるのか。どうなの。ブログのお題で「流水大説」なんてリクエストされなきゃ絶対手に取らなかったシリーズですもん。読む前からBOOKOFF講談社ノベルスコーナーで見かけるたび「こんな小説読むのチンパンっしょ」て思ってバカにしてましたよ。まさか読むことになるとは。

 

『カーニバル・イヴ』

 予告編みたいな一冊。「犯罪オリンピック」が始まるという噂がネットで広まってJDCの探偵達が不安がる。というだけの話をおよそ300ページかけてダラダラと描写。一番最後のページでJDC本部ビルが爆破されて「犯罪オリンピック」が開幕する。ネタバレ?知らねえ。どうせこのブログ読んだ人もこれ読まないと思うもの。本編以外にも心理テストとか用語集とかJDC所属探偵の一覧表がついてるよ。お得です。

 

『カーニバル』

 ビリオン・キラー(十億人殺す者)」が犯罪オリンピックを主催。世界中の名所が燃えたり爆発したり崩壊したり消失したりする。背表紙から引用すると「イースター島モアイ ナスカの地上絵 ミステリサークル ストーン・ヘンジ カルナック列石 カッパドキア地下遺跡 バミューダ・トライアングル 喜望峰海獣 エンパイアステートビル 空中城塞都市遺跡 エッフェル塔 ナイアガラの滝 新凱旋門 グリニッジ旧王立天文台 大阪城天守閣 ネス湖ネッシー ボロブドゥール寺院 ピサの斜塔 グランド・キャニオン ノイシュヴァンシュタイン城」などが舞台となる。読んだはずだが、あまりにもいろいろ起こるのでどこで何が起きたのか全然覚えてない。世界の名所がたくさん出てくるので旅行してる気分になれてお得だと思います。あと、事件の規模と死者からしてもう犯罪っていうかテロ、災害のレベルで謎解きとかそういう問題じゃない気がする。この連続不可能時限犯罪と並行して謎の伝染病が流行し一日に400万人ずつ死んでいきます。何言ってるかわかんないでしょ。俺も分からん。

 

『カーニバル・デイ』

 いろいろあって最終的に40億人死にます。嘘じゃないんですよ。マジなんです。一応これまでに起こった事件の犯人とか犯罪の方法とかも明かされますけどスケール大きすぎて意味不明です。そもそもJDCの探偵が誰一人真相にたどり着けないので最終的に敵がネタバラシします。そのネタバラシの仕方もものすごく荒っぽいというかなんというか。確かに全部説明したはしてるけどこれでいいんすか。ここまで来るとミステリじゃなくてSFですねって感じ。清涼院流水急にオカルト方面に舵切ってどうした?ってなる。ムーにハマってたんすね。九十九十九もあっけなく死んじゃう。生き返ると思ったら最後まで死んだままだし救いがない。物語を最後まで読みすすめた読者には「本を乱暴に読み飛ばして批判するやつは獣だぜ」というありがたいお言葉が待ってる。俺はもう獣でいいです。アニマルです。畜生です。許してください。てなった。泣きそう。

 

 これで時系列的にはJDCシリーズの最後まで行ってしまったことになる。(「彩紋家事件」残ってるけどコズミックの前の話なんで)よっぽどのことがない限りもう2度と読むことはないと思う。『彩紋家事件』も買ったけど読みません!疲れたから。こんだけ長い本なのに読み終えた後、胸に残るものが皆無だな。ただひたすら疲れた。やっと終わって良かった。その気持ちしかない。これ面白いっていう人ほんとにいるのかしら。半年ちかく四苦八苦しながら読み進めたわりには全くリターンがない。このブログを読んだ人が片っ端からこの本を購入してくれればアフィリエイト収入で儲けられるんですがね、ヘヘ。今のままだと買ったお金と時間を無駄に浪費しただけなのでなおさらそう思う。自分の好みに合わない本を読むことがこれほどの苦痛を伴う作業だとは思わなんだ。でも、人生って基本そういうものなのかもしれない。そんなことを考えさせられる読書体験でした。

 

 2ヶ月ぶりに更新したブログがこんな適当でいいんだろうか。みなさんお元気ですか。この2ヶ月の間に地元の駅に磯丸水産が出来たりTSUTAYAのCDコーナーが潰れたり、中学生の頃に通っていたゲームセンターが潰れておしゃれな本屋さんになったり色々ありました。俺は今も変わらずニートをしています。 ニート生活ももうすぐ一年を迎えます。一周年パーティーをしようとtwitterで募集をかけたけれど誰からも参加したいという連絡がこなかったりしました。元気です。ニート生活長すぎて何もすることがありません。テレビに録画した「エヴァンゲリオン旧劇場版」か「ワールドトリガー」を一日中見返して過ごしてるけど、それにも飽きつつある今日この頃。

 

 

カーニバル・イヴ―人類最大の事件 (講談社ノベルス)

カーニバル・イヴ―人類最大の事件 (講談社ノベルス)

 

 

 

カーニバル―人類最後の事件 (講談社ノベルス)

カーニバル―人類最後の事件 (講談社ノベルス)

 

 

 

カーニバル・デイ―新人類の記念日 (講談社ノベルス)

カーニバル・デイ―新人類の記念日 (講談社ノベルス)

 

 

 

私があなたのためにしてあげられることなど何もないのだけれど

 Twitterで募集をみかけて面白そうだなと思って創元社エントリーシート出したら見事に落ちた。出版社特有の無駄に長いエントリーシートと作文書いたりするのが意外と大変で半日くらいウンウン唸って書き上げたのに、無惨。家族に内緒でエントリーシート出したのにお祈りが郵送だったために親経由で「あんた創元社からなんかきてるよ」→「中身何だったの?」て聞かれるから地獄だった。「ちょっと欲しい本があって注文してたけど、なかったみたい」という謎の嘘をついて落ちたことを隠ぺいした。落ちた瞬間はそこまで落ち込みはしなかったけど、お祈りの通知を見てお風呂に入ったあとにベッドの上で青山景の『The Dog Race』を読んでるときにダバーっと涙が出てきてまるでメンヘラかAKB総選挙の徳光和夫。この本に収録されている「リリカチュア」という短編がなぜか涙腺にきた。屋上から飛び降りて自殺しようとする女の子をそこに居合わせた男が劇のふりをして励ますって話なんだけど、虚構が現実と対決していく系の話ってよくないすか?「ビッグフィッシュ」とか「落下の王国」とか。ニートが書類選考落ちたごときで泣くなんてアホだと思う。「ダメ人間な自分」に酔って泣いてるだけじゃないんかと。現役で就活してる時も落ちるのが嫌すぎて全然やる気がでなかった。何十社も受けるとかみんな心強すぎるだろと思ってた。あのお祈りの連絡を見た時の「おまえは必要とされていない」って強烈なメンタルへの一撃に耐えられない。ドッジボールのチーム分けとか花いちもんめで最後まで残ってしまった時に近い絶望感がある。「おまえはいらん、おまえはいらん、おまえはいらん……」発狂。

 

 姉が転職に成功した。誰もが知っている有名な会社から内定が出たらしい。姉、ものすごく大雑把で部屋も汚いのだけど、妙に要領が良くて高校も大学も推薦で一発で決めて、今の会社入ってからも海外出張バンバン行って英語もペラペラでもう手に負えない。大学も国公立で親孝行だし、というか普通に文句を言いながらも不満のあるらしい今の仕事をちゃんと続けているのがすごいと思う。かたや俺は高校も落ちるし、大学も私立だし急性アルコール中毒で入院したことあるし親から誕生日プレゼントにもらった就活用のカバンを山手線に置き忘れて失くしたし、買って3ヶ月くらいのiphoneを酔って上着ごと失くしたし新卒で入った会社が3ヶ月も続かなかったり辞めた後も特に何をするでもなくニートしていたり、親に迷惑かけっぱなしなのである。

 

 前の会社にいた頃、先輩から「お前は本当にクズだ。お前を育てた親もクズだ」と言われたことがあって、何でそんなことを言われたかというと俺がいろいろあって取引先から出入り禁止くらったからなんだけど、それ言われてから「自分向いてないっす」と思って辞めた。「親がクズ」発言とかそういうこと言うのもどうなのかなと思ったし。俺の両親二人とも教育関係っていうか普通のサラリーマンじゃなくてまあ教員なんだけど、先輩から言わせると「教員は会社での社会経験がないから非常識で、その子供も非常識に育つ」ということらしい。いくら俺が使えないからといって「親がクズ」って論理はおかしい。だって、俺と同じ親から生まれた姉は立派に社会人をやっていて、俺のいた会社よりはるかに大企業に勤めていたから。そして、さらに大企業に転職してバリキャリの道を突き進んでいて、先輩の「親が教員なら子どもも非常識」理論を見事に無力化してるわけじゃないすか。つまりクズなのは親とか育ちとかじゃなくて俺のパーソナルな部分の問題なわけっすよ。「お前がクズ」って部分をあえて反論しようと思わない。頑張って見返してやるとも思わなかった。「この先一生ニートでもいいからこんな会社辞めたい」という感情しか持てなかった。 

 

 家族からしたら俺のようなニートかなりお荷物なんだろうな。親も還暦近いし職場じゃそこそこベテランで通ってるだろうに同僚とか友達に「長男がニートで引きこもっててゲームキューブピクミンばっかやってて…」「この前出したエントリーシートが落ちてガチ泣きしてて…」とか言いにくいと思う。その点「姉は国公立大学で…」「出張で海外飛び回ってて…」て超言いやすいじゃん。はあ。姉からしても、付き合ってる人と結婚しそうになって家族ぐるみの交流が発生した場合「え?君の弟ニートなの?」「クローズアップ現代でよく特集されるあのニート?」「我が~家は格式高い血筋ゆえ斯様な殻潰しのおる家などもってのほか」って破談になる可能性がある。そうはならなくとも姉も家に彼氏つれてきて紹介したいけど俺がいるから安心して呼べないんじゃないか。姉の婚期を遅らせてるのは俺なのかもしれない。

 

 恋愛という人間関係のガチンコファイトクラブでも、前の彼女に迷惑かけたし。「貴方と付き合っていた時間全てが無駄だった」って言われるか?普通。あれから半年以上経ったのかと思うと、胸が痛い。あの人は無事に公務員の彼氏を見つけて幸せな家庭を作っているのだろうか。人と付き合って別れるといつも死ぬ寸前くらいまで落ち込むから、生まれつき精神構造がそういうことに向いてないのかもしれない。向いてるか向いてないかとかの前にニートなので誰も相手にされてないのだけど。友達とか親とか姉とか前の恋人とか周りにいる人はみんなまともでちゃんとしてるのになんでこんな感じになってしまうんだろう。

 

 どこにいたって「どこにも居場所ない」と思ってしまう。しょうもない性格。それが暇つぶしにいっちょやってみっかとこのブログを始めてみて、面白い文章を書くのも大変だなと思ってしまう今日この頃。最初のほうは普通に自分の身に起きた嫌な出来事をただひたすらガーって勢いに任せて書いてるだけで、文章がどうとか気にしてなかったけど。読んでもらえたり反響があったりすると、ものすごく嬉しくて「世界から認められた」気がした。生まれてから初めて面白いって言われたし。中二の夏休みの読書感想文で死ぬほど国語の先生にバカにされて以来、自分の文章力に自信がなかったけど(今もだが)読んでもらえて自分の承認欲求を司る脳みそにドーパミンがどくどく分泌されるのがわかった。その読まれたさが高じて書かなくていいようなこともたくさん書いた気がする。でも、ブログも難しい。毎日書きたくなるようなことがあるでもないし、俺が表現したくても手の届かない領域があるんだなと。映画の感想とかその最たるもので、自分は映像表現から何か深いところをくみ取ったり分かりやすく言語化したりするの超苦手のようです。面白い映画を見て面白い感想を言える人にあこがれるけど俺は空洞。「服の色が~のメタファーで」「天気が心情描写を」「カットの仕方が~」とかそういう難しいことも全然気づけない。グザヴィエ・ドラン監督の「トム・アット・ザ・ファーム」っていう映画見た時「よく分からないけどなんか怖面白かったなー」っていう小学生並みの感想しか出てこなかったけど、ある映画のブログで「画面のアスペクト比が変わる瞬間」と「登場人物が着てる服に描かれているもの」と「エンディングテーマの歌詞」に注目すると映画のテーマがなんなのか一目瞭然だ、みたいなこと書いてあって驚いた。「画面の比率変わったなんてわかるわけねー」「服の柄やエンディングテーマなんていちいち気にしねー」と思ったけど、それを念頭に2回目見た時、ほんとにテーマが一目瞭然なんですよ。たしかに画面の比率変わってるな、とか服の柄は~のメタファーなんだなと気づけた。その時から「俺は映画見てるようでなにも見てないんだな」と実感して、自分のあっさい感想なんてあてにならないなと思ったわけなのですよ。リンチの「マルホランド・ドライブ」とかお手上げっす。騙される系の映画には必ず騙されるし、2度見ないと分からない系の映画は5回見ないと分からない。バカ?そういえば「インセプション」も全然分からなかった。

 

 

 ブログを承認欲求のために描き続けるのは無理がある。アクセス数とか気にせずのんびり書けたらいいんでしょうけど自分信じられないくらいの人の目を気にしいなのでそれにやる気を左右されすぎる。それともう自分の中にある面白みがなんもなくなってスカスカになってしまった感じがします。(最初からそんなものはなかったって?)4千字程度の記事を十数回書いた程度でもう話したい事が尽きるってどうなのって気がするけどしょうがない。この前書くのがなくて困ったときにTwitterでブログのお題いただいてて「流水大説九十九十九を語ってほしい」と言われて早速清涼院流水先生のJDCシリーズ全巻買ってきたんですけど、『コズミック』『ジョーカー』『カーニバル・イブ』『カーニバル』まではなんとか食らいついたけど『カーニバル・デイ』っていうミステリ小説型レンガに屈しました。あれは人類の読むものじゃないと思う。たぶん、このブログで書いても面白くできそうにないし恐れ多い。俺が感性が凡人すぎて流水先生の高みまでどうしてもたどり着けないというか。買って3ヶ月も経ってるのにまだ四分の一くらいしか読んでないので、読み終わるのいつになるか分かりません。それに加えて本読むのめんどくさい期に突入しました。これも時間が経てばいつか自然に抜け出せるはずですが、根本的に「俺が書きたいブログ」と「読者の読みたいブログ」はかけ離れているんだなと思いました。とりあえず「カーニバル・デイ」を読み終わったらブログを書くので、それまでしばらく更新をお休みしようと思います。いままでこのアホみたいな文章を読んでくださった方ありがとうございます。

 

 ……何かを終わらせるのに理由ってそんなに必要?

生きることには理由なんていらないのにね。

嫌なこととか辛いこともあるけど、

でもそれで絶望したわけじゃない

絶望なんてそんなの始めっからしてたもん

『The Dog Race』「リリカチュア」 青山景

 

 

THE DOG RACE ~青山景初期作品集~ (IKKI COMIX)

THE DOG RACE ~青山景初期作品集~ (IKKI COMIX)

 

 

「籠の中の乙女」「ロブスター」の感想など

 女の子と映画見に行くことになった時は、どの映画をチョイスするかによって今後の関係が左右されるといっても過言ではない。

 デートムービーという言葉がある。

 それさえ引き当てれば2人の中も急接近間違い無しのハートフルな映画をいかに選ぶべきなのか。ここで映画好きとしてのセンスが試されるわけ。

 ひょんな事から久しぶりに女の子と遊ぶことになってニートは張り切って情報収集した。どうやらヨルゴス・ランティモス監督の二本立てがキネカ大森でやっているらしい。キネカ大森は大森にある名画座で、東京の大学行っている時にたまに通ってて、ニートになってからめっきり足が遠のいてしまった懐かしの地だった。遠のいたわりに半年くらい前に3枚綴りの名画座回数券を買っており、そのラスト1枚が残っていて期限が3月の末に切れそうだったので、このまま使わぬまま腐らせるのも忍びないと思い、遊びに行く女の子に「キネカ大森でやっている「籠の中の乙女」と「ロブスター」見に行こう」と送った。「いいね」と返信がきた。この映画が2人の中を取り持ってくれるような素敵な映画であったなら、俺にもようやく春が訪れるかもしれない。その時はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨルゴス・ランティモス監督の作品はデートムービーではなかった。

 具体的にどの辺がデートムービーではなかったのかというと、冒頭5分足らずで全裸の男女がジョイントするわ、猫や犬が惨殺されるシーンがあるわ、性描写が露骨すぎてボカしが入っているわ、ところどころ目を背けたくなるような暴力シーンがあるわで「THE 異性とデートで一緒に見るべきではない映画」という感じであった。見に行きたいと言い出した俺はともかく興味もなかった女の子からしたら苦痛以外の何物でもないだろう。性描写が露骨すぎるのはちょっと本当にやめてほしかったというか。女の子誘って行った俺が悪いのかもしれない。

 小学生の頃に家で両親と一緒にキューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」を見たことを思い出してしまった。あの時は冒頭数分でレイプシーンがあって、父親がテレビの前に仁王立ちして隠していたっけな。懐かしい。そのあとの「雨に唄えば」のシーンで強制停止させられたんだった。あの時もものすごく気まずかったけど、まだ肉親でビデオだったからよかった。今回は他人で2本立てだったから更にキツかった。映画館の闇の中で俺、顔真っ赤。何が恥ずかしいかって「こんな映画を日常的に好んで見てるやつ」だと思われてないかしらといういらぬ心配をしてしまってかなわんね。「こういう映画なんてほとんど見ないから」と弁解したくなった。今まで映画館で見た映画の中で1番エロかったのはラース・フォン・トリアー監督の「ニンフォマニアック」と監督知らんけどいつかパルムドール取ってた「アデル、ブルーは熱い色」くらい。エロい映画だって身構えていけばよかったけど、全然覚悟が足りなかったせいですごく恥ずかしかった。R指定ついてるのは知ってたのに馬鹿!俺!

 

籠の中の乙女

(あらすじ)
ギリシャのとある一家。息子(クリストス・パサリス)と2人の娘(アンゲリキ・パプーリァ、マリー・ツォニ)は、しゃれた邸宅に幽閉され、育てられてきた。ある日、父(クリストス・ステルギオグル)が成長した息子のためにクリスティーナ(アンナ・カレジドゥ)を家に入れる。しかし、子どもたちが外の人間に初めて触れたことをきっかけに、一家の歯車は少しずつ狂い始め……。(以上、シネマトゥデイより)

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 家から子どもを出さないために親がめちゃくちゃな事を教えて子どもたちに信じ込ませるっていうパッと見た感じコントみたいな設定。コントみたいなギャグ。「【海】という単語は革張りのソファのことです。」とか延々と単語の意味をぐちゃぐちゃにした教育テープ聞かせたり、猫を超危険な動物だと思わせるために血糊で怪我したふりしたり、親の言うことをちゃんと聞くとよかったシールみたいなのがもらえてその数を兄妹で競わせたり、犬歯が生え変わらないと大人になれないと教えたりしていた。登場人物も10人足らずだし、大部分のシーンが家と庭で撮影されてて演劇っぽいかなとも思った。見る前からこのストーリーに興味そそられてて、まず「子どもにデタラメなことを信じさせて育てる」っていう行為がものすごく面白そうで期待値が高まった。たとえば「サンタさんがクリスマスイブにプレゼントを持ってきてくれる」とか「赤ちゃんはコウノトリが運んで来てくれる」とかそういった親が子にファンタジーな嘘をつく場面て日本でも往々にして存在するわけじゃないですか。ああいう嘘って大人になる途中で自然と嘘に気づいていくからいいけど、もし外界と接触させずに育てたらそういう世界観をずーっと自分の中に抱えて生きていくことになっちゃうわけで。それって実はめちゃくちゃ危険なことなんじゃないのかと思いました。ただ、危険であると同時に非常に魅力的だなっていう。ワクワク感と不気味さのある設定だと思ったんだけど本編見てみたら「おぞましさ」100%でした。ふつう親が子供を自分の好きなように洗脳しながら育てるとすると「いつまでも純真でいてくれたらいいのに」って発想から「コウノトリ」的な嘘で性的なものをなるべく遠ざけようとすると思ったんだけど、開始5分で父親が長男に性欲処理の女性を斡旋するシーンがあって早々に観客にボディブローかましてきますわな。濡れ場の撮り方もすげーあっさりしててそれが逆に怖い。ほんとに「処理」って感じ。血が通ってないというか、昆虫の交尾みたいだった。子どもたちと父親は目離したら次の瞬間何しでかすか分かんない怖さがあってそれが90分ずーっと続いてしんどかった。長女が映画のビデオを親に隠れて見たことをきっかけに外に逃げ出すことになるんだけど、気が狂ったように映画の1シーンを暗唱したり真似したり踊ったり、でも生まれて初めて映画見たらあんな風になるよなって思った。子どもたちから言葉の意味を取り上げるためにたぶん本もテレビも絶対に禁止してる風だったし。父親のその狂った徹底っぷりは嫌ってほど描かれていた気がする。買ってきたミネラルウォーターから一枚一枚ラベルはがしていくシーンとかビデオデッキを狂気にするシーンとかで。父親がなんでそういう育て方をするようになった背景は最後まで描かれなくて、それも不気味だった。めちゃくちゃに歪んだ教育を受けても「家の外」が分からないとその異常さに気づかないって当たり前の話だけど、じゃあ普通ってなんなの?みたいな哲学。この映画の場合はその閉ざされた環境に持ち込まれた「家の外」がたまたま古い映画のビデオだった。最後家を抜け出すためにエグい試練乗り越えた長女の顔面が痛そうにしてんのにへらへら笑ってて、怖いやらカッコいいやら。

 

「ロブスター」

あらすじ
独身者であれば身柄を確保され、とあるホテルへと送られる世界。そこでパートナーを45日以内に見つけなければ、自身が選んだ動物に姿を変えられて森に放たれてしまう。そのホテルにシングルになったデヴィッド(コリン・ファレル)が送られ、パートナー探しを強いられることに。期限となる45日目が迫る中、彼はホテルに充満する狂気に耐え切れず独身者たちが潜んでいる森へと逃げ込む。そこで心を奪われる相手に出会って恋に落ちるが、それは独身者たちが暮らす森ではタブーだった。(以上、シネマトゥデイより)

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 独身を禁止する社会で主人公が右往左往するディストピアSF。「世にも奇妙な物語」チックなお話。一軒の家が舞台でいかにもこじんまりって感じの前作よりホテルとか動物とか森とかキャストとか露骨に予算増えたなあっていうのが連続して見るとなんか面白かった。近未来っぽい要素を「人を動物に変えるテクノロジー」一本に絞ってるのなんでなんだろう。あとは普通に現代と変わらない様子だったのにそこだけ変に浮いてる気がする。「籠の中の乙女」よりは素直に笑える部分が多かったけど、グロさ、エグさは似たり寄ったりだった。お兄さんが死ぬシーンはすごいな、と思った。あの会話の段階では冗談とかカマかけを期待して返事してたのに、血まみれの足を見せてすべてを分からせるあの演出超クール。ダメ押しであの洗面所のシーンと合わせて監督の徹底的に観客に嫌われようとするヒールっぷり突き抜けてた。共通点探しに固執してる描写が主人公とその周辺に何回も登場してその意図が気になった。鼻血を頻繁に出す体質の女性と仲良くなるためにわざと鼻血出す人とか、お兄さん殺した人も主人公がサイコパスのふりしたら一発で落ちたし、コンタクトレンズを確認する(あそこも相当性格悪い撮り方してて嫌だった)シーンもパートナーに無理やり自分を合わせようとする滑稽さを感じた。共通点がないと恋人でいられないことを死ぬほど皮肉ってるよね。かくいう俺も元カノにニコニコ生放送勧められたとき無理して「面白いね」って言ってたことがあってあんま笑えなかった。鼻血出す女の子が背泳ぎしてるシーンがエロくてかわいかったとか主人公たちが森で食べてる動物って元人間?とか独身レジスタンスのリーダーが不細工じゃなくて普通にだれとでも一緒になれそうな美人(調べたら「アデル、ブルーは熱い色」の人だった。全然気づかなかった。)だったのが意味深だったりした。この監督は徹底的に「普通じゃない」ことを描いてそっから「普通」を逆に際立たせるみたいなアプローチで映画作ってるのかな。筒井康隆の『笑うな』って短編集に「傷ついたのは誰の心」ってショートショートが載ってて、それは主人公が家に帰ると奥さんが警官に強姦されていて、それをやめてもらうように警官と押し問答する話なんだけど、めちゃくちゃな状況で普通に会話が続いてる気持ち悪さとかがあって、でも全体的にセンチメンタルで淡々としててなんか好きな話なんすけど、ヨルゴス・ランティモス監督二本立て観終わったらなんか読み返したくなりました。あと藤子・F・不二雄の「気楽に殺ろうよ」も思い出した。これは主人公が、性行為と食事の羞恥観念が逆転していて殺人が合法化されてるパラレルワールドに迷い込むって話でものすごく面白いです。

 

2本立て見に行った女の子からは当然のように連絡がこなくなりました。

ヨルゴス・ランティモスが傷つけたのは誰の心?

 

 

 

笑うな (新潮文庫)

笑うな (新潮文庫)

 

 

今さら「シェイプ・オブ・ウォーター」の感想など

 お金のないニートなのでファーストデイ割引がすごくありがたい。3月1日に「シェイプ・オブ・ウォーター」を見に行った。半魚人とその研究施設の掃除をしている女性のラブストーリーで、監督はギレルモ・デル・トロ

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2017年8月に第74回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門で上映されて金獅子賞を受賞し、第42回トロント国際映画祭英語版で上映される北アメリカで2017年12月8日に一般公開の予定である。暴力描写や自慰行為の描写があるため日本国内では、東京国際映画祭で公開されたオリジナルバージョンはR18+指定で公開され、2018年3月1日に公開されるものは1か所をぼかし処理したR15+指定バージョンのものである第90回アカデミー賞では作品賞など4部門を受賞し、第75回ゴールデングローブ賞でも2部門を受賞した。 

ウィキペディア

  この監督の作品で見たことがあるの「ヘルボーイ」の一作目と「パシフィック・リム」と「パンズ・ラビリンス」くらい。あと監督じゃなくて制作総指揮のやつだけど「永遠のこどもたち」も見た。アメコミとか巨大ロボットとか残酷ファンタジーもホラーも撮るし、さぞマニアックな人なんだろうね、というふうな印象を持っている。「パンズ・ラビリンス」はけっこう怖面白かった、ペイルマンとかファンタジー要素も怖いけど現実世界の軍人が一番怖かった。頬っぺたざっくりやられて縫うシーンとかあって嫌だった。「ヘルボーイ」にもエイブ・サピエンていう半魚人キャラがいてこいつは中々カッコいいキャラだったような…でも続編追うほどハマりはしなかった。

 

 「シェイプ・オブ・ウォーター」は見る前から賞いっぱい取ってるのを知っていて、どうやらスンゲェ映画らしいという期待値バリ上げ状態だった。3月1日に「リバーズ・エッジ」と「シェイプ・オブ・ウォーター」どっちを見ようか迷ってたけど、「色んな賞とってるし」「劇場公開初日だし」という安易な理由から「シェイプ・オブ・ウォーター」を選んだ。R-15だったせいか公開初日なのにスクリーンが小さくて、すこし残念だった。

 

 で、観終わってもう一週間近く経って、昨日Twitter見たら「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー賞の作品賞含む四部門受賞ってのを知って「おお!」という気持ちになっていまブログを書いている。監督賞と作品賞ダブル受賞ってすごくないですか。直近だと「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」が取っているみたい。これも名作。

 

 なんで観終わってすぐにブログを書かなかったのかというと、個人的にはあまり面白くなかったから。つまらなくはなかったけど、「もう一回見たい」とか「感動した」とかそういう気持ちが一切湧いてこない系ムービーだった。見る前に期待値を上げすぎたのが良くなかったのかもしれない。どこのサイトでも「デル・トロ版「美女と野獣」だ!」みたいに熱っぽくみんなが褒めてるのも、観終わったあとだと祭りにのりきれないようで寂しい気持ちになってしまう。

 

 とにかく半魚人のヴィジュアルが怖すぎる。人間性を疑われるからあまり言いたくないけど全然助けてあげたいと思わなかった。たしかに「美女と野獣」のラストは「ありのままでいいとか言っといて結局最後はイケメンになるんかい」と思う。基本的には「外見よりハート」をモットーに掲げているこの俺でさえ「ちょっと無理だ」てなった。俺の中で「外見よりハート」が適応されるのは哺乳類までなんだなあと感じた。そりゃこっそりと暮らしている半魚人さんをアマゾンの奥地からはるばる誘拐してやれ実験やら解剖だなんだはぜんぶ人間側の都合だけどさ。人間て基本そういうもんでしょ。「彼を助けなきゃ私たち人間じゃないわ」という台詞があったけど、俺はどうやら人間じゃない。多分あの世界にいたら積極的に石とか投げるわ。あの異形の姿に美しさを感じたり慈しんだりする心も人間的だと思うけど、一方で人間に近いゆえの嫌悪感や不気味さを感じて迫害したりすることだって当たり前の感情のような気がしてしまう。

 

 半魚人と性行為するか、半魚人を殺して解剖するかだったらどう考えても前者のがいかれてると思ってしまってそこにひっかかって最後までいまいち盛り上がれず...。でも、この映画から恋愛要素を引いたら「E.T.」の焼き直しみたいな薄味になると思うし、難しい。(ちなみに「E.T.」もE.T.の見た目がキモ過ぎてあまり好きな映画ではない)

 

 半魚人のことを「醜いモンスター」としか認識できなかったから、登場人物の中なら半魚人めっちゃ殺したがるストリックランドのほうが感情移入できたかな。あとホフステトラー博士とジャイルズも好き。性愛の対象として見てるイライザはもうぶっ飛びすぎててついていけない。半魚人でさえ彼女いるのになんで俺にはいないんですか。あの映画見て「ロマンチックね」とかいえるならコミュ障ニートでもいいだろ。ダメか。

 

 舞台はアメリカだけどレトロな美術がどことなく「アメリ」を思い出した。あとなんとなく「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も。障がいを持ってる女性の生活とか日々の薄暗い感じが似てるかも。ストリックランドの聖書のエピソードを引用しながら脅迫する感じもタランティーノの「パルプ・フィクション」っぽいなあ。こういう自分の見てきた映画から似たモチーフをあれこれ探してしまう。昔っぽいミュージカルとかタップダンスも「ラ・ラ・ランド」でそういうのやってたよねって感じだった。

 

 でも、「シェイプ・オブ・ウォーター」のストーリーのもとは監督が6歳のときから温めていた案らしいので、多分やりたいこと全部詰め込んだら自然とこうなったんだろう。キャスティングとかに文句つけられるのが嫌だったから、製作費の一部を自分で負担したとも言っていたからそれだけ思い入れの強いテーマなんだね、きっと。ただ、六歳のころから半魚人と人間の恋愛を妄想するデル・トロ監督もちょっと頭おかしいと思う。

 

 映画のラストは、イライザにエラが生えてふたりで一緒に暮らしましたとさ的な着地迎えるけども、友達より同僚より半魚人と一緒になっちゃうのもったいなくない?て思ってしまった。あのまま水の中で暮らしてたら主食が虫とか生魚になるじゃないすか。映画も観れないしゆで卵だって二度と食べられなくなるのに、「愛さえあれば幸せ」なのか。本当にそうなのか。

 

 シーン単位で面白いところは結構あった。

 最初の方のイライザのゆで卵と自慰と仕事中心の生活がテンポよく切り替わっていくところ。ホフステトラー博士が国を裏切って半魚人逃がそうとするところ。流ちょうなセールストークに乗せられて車を買わされるところ。ジャイルズがカフェの店員に露骨に同性愛差別されるところ。ゼルダの旦那さんがイライザのことストリックランドに告げ口しちゃうところ。

 

 映画全体を通して「喋れること」と「喋れないこと」について考えさせられた。

イライザも半魚人も声を発することができない。

イライザのアパートの同居人であるジャイルズも意中の人に同性愛者だってことを打ち明けられず悶々としている。

ホフステトラー博士もスパイとして祖国の命令に従うために本当の自分の気持ちを押し殺している。

イライザの同僚の黒人女性ゼルダもストリックランドとの会話シーンを見るに人種差別されていてその発言が軽んじられている。

 

 生まれつき喋れなかったり、喋る内容を不当に押さえつけられたりする人たちが、一致団結して流れに反発するお話し。その中心にあるのが半魚人と人間の言葉を超えた恋愛なのであるよまったく。だから悪役は人種差別主義の動物虐待セクハラ親父ってことなのだけれど、そういうのも昨今の世界情勢を皮肉ってる向きがあるかもしれん。でも押さえつける側であるストリックランド自身も家族含む他人の言葉に心底うんざりしていて、それゆえに喋れないイライザに興味を持っていて…て感じなのかなあ。

 

デル・トロの映画で描かれる、現実に満足していないマイノリティたちは、“夢”を必要としている。イライザが観ている古い映画や、『パンズ・ラビリンス』の少女オフェリアが抗いようもなく惹かれている妖精の世界や、おとぎ話の“夢”が必要なのだ。それは、デル・トロ自身が子供の頃から必要としていたに違いない“夢”と同じなのだろう。メキシコで生まれ育ち、当時は“オタク”というマイノリティーだった彼は、幼い頃から映画や怪獣やモンスターといった異形のものに惹かれていた。そして、その異形の存在に救われてきた。映画人として国外に活躍の場を移しても、メキシコ人であることで差別を受けてきた。彼自身が、イライザであり、オフェリアなのだ。

(小島 秀夫)

 

 アカデミー賞取ったんでまだ見てない人はぜひ。

あ、そういえばこのブログめっちゃネタバレしてますね。もし見てない人いたら申し訳ないけれど。今さら過ぎる。

 

新しい卵ドリル おうちの卵料理が見違える!

新しい卵ドリル おうちの卵料理が見違える!

 

 

女の子に貸した漫画は永遠に返ってこない

「お前はお喋りが退屈でないのか」
「あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ」
「俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ」
「お前は喋らないから退屈なのさ」
「そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ」
「でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから」
「何を」
「何でも喋りたいことをさ」
「喋りたいことなんかあるものか」

桜の森の満開の下坂口安吾

 

 横浜駅スターバックスにてこの文章を書いている。アイスコーヒーのトールを飲みながら。土曜日の午後なのでやたら人が多い。激混みのスタバの中、タブレットPCで作業するマザファッカの仲間入りした高揚感(さすがにmacではないけれど)。最近、少しずつ暖かくなってきてもう春。花粉かわからんけど鼻水がやばい。スタバで書いてるのにブログがおしゃれにならない。鼻水がやばいってなんだ。

 

 女の子に貸した漫画が返ってこない。すこし仲良くなったと思ったらほいほい漫画を貸してしまう俺がいけないのだけど、貸してる間に疎遠になってしまって、返ってこないパターンがほとんどで困る。思えばいろいろな人にこれまで漫画を貸してきた。高校の時、初めて付き合った女の子がかなりの漫画好きで、その影響で俺も漫画を色々集めるようになったんだった。初めて家に遊びに行ったときベッドの下から100円ショップの漫画ケースを十数個ぶわーっと取り出してきて度肝を抜かれた。人並みに漫画を読んできたほうだと思ったけど、こんな漫画集めてる女子がおるのかとカルチャーショックを受けた。その女の子から『HUNTER×HUNTER』を借りて、ヨークシン編のウヴォーギンVSクラピカにおける冨樫の天才っぷりについて語り合うのがめちゃくちゃ楽しくて、人に漫画借りたり貸したりする楽しさに目覚めた。中学までよく漫画の貸し借りしてた友達は『ボボボーボ・ボーボボ』とか『ヘルシング』とかそういった変化球ばっかだったので『HUNTER×HUNTER』の衝撃はすさまじかった。「彼氏の影響で少年漫画にハマって~」とかいう女の子はよくいるけど、そういうのってどうなんだ。どこまでディープな趣味まで付き合ってくれるんだろう。彼氏に『ザ・ワールド・イズ・マイン』とか『殺し屋1』とか『餓狼伝』とか『シグルイ』とか『喧嘩稼業』とか『WATCHMEN』勧められてもハマっていくのだろうか。「彼氏の好きなものは私も好きになりたい」的なスタンスの女の子と付き合ったことがないからいつも無理やり貸してる気がする。迷惑だな。

 

 穂村弘がエッセイの中で、ラブホテルで大島弓子の『たそがれは逢魔の時間』のセリフを一緒に暗唱し合ったとか彼女の部屋でしりあがり寿の『夜明ケ』を読んで感動したとかそういうエピソードを紹介していて文化系ボンクラの俺としてはいたく憧れたものだった。でも、女の子に漫画貸して「良かった」みたいに言われることあんまない。むしろ貸してる間に喧嘩したり、疎遠になったりすることが頻発してどうしようもない。もし女の子と付き合ったらよしもとよしともの『ライディーン』とか読んでいただきたい。俺からよしもとよしともの『ライディーン』借りて読んでくれる女の子いねーかな。

 

 前の彼女には『子供はわかってあげない』を貸したままフラれたし、その子には『げんしけん』も貸して結局読まずに返されたこともあって悲しかった。『おやすみプンプン』みたいな不健康な漫画を読むくらいなら『げんしけん』を読んで欲しかった。tinderで最初に会った女の子には舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』を借りパクされかけたけど、貸してから2ヶ月過ぎても読んでないっぽかったので、『闇金ウシジマくん』の取り立て並みにプレッシャーかけて、どうにか取り返した(返してもらった後に即LINEブロックされた)。女の子って男より漫画読むの遅くないですか。たまに男でも全然返さないやついるけど。大学の時のサークルの同期に『バイオーグ・トリニティ』をそれまでに発売された6巻くらい貸したらそのあと一年くらい返ってこなかったことがあって、その時もしつこく催促してたら返ってくるときに新刊出てる分を2冊買って返ってきて「そのお詫びの仕方新しいな」と思った。自分でも普通に新刊追ってたんでお詫びの分のその2冊がダブってちょっと困ったけど、友情の証としてなんとなく取っておいてる。中学の時のある友達は家庭内ルールで漫画禁止のために朝に貸した『ジョジョの奇妙な冒険』数巻を帰り道の間までに読んで返すというTSUTAYAもびっくりの当日返却してきて、そいつくらいにみんな早く読んで返してほしいですね。すぐ感想を聞きたいから。

 

 エセ漫画ソムリエ気取りの貸したからには絶対感動してもらいたいという押しつけがましさが良くないのかなと思う。俺が暑苦しく勧めるせいで傑作との自然な出会いを邪魔してしまってるのかもしれない。というかそこまで漫画も詳しい方じゃなくて中高生時代に友達と遊びに行ったりする健全な青春を送れなかったため、BOOKOFFで暇つぶししてる時間が人より多かっただけである。あと『ドラゴンボール』通しで読んだことないので漫画好き名乗る資格ない。

 

 前にブログに書いたけど、tinderで知り合った静岡の女の子に古谷実の『ヒミズ』を貸して、その女の子にもう一回会うことになって「『ヒミズ』まだ読み終わってないけど新しい漫画貸して」って言われて「今借りてるの読んでないのに新しいの借りるってすげえな」と思いつつ、幸村誠の『プラネテス』という漫画を貸した。人に漫画貸すときって「サクッと読めるようになるべく短い巻数で完結してるのがいいかな」とか「ハイセンスに思われたいな」とかいろいろ考えながら本棚とにらめっこするわけで、そのなかでも『ヒミズ』と『プラネテス』はかなりの鉄板チョイスなんで、「こりゃ勝負あったな」て感じでドヤ顔で貸したけど、結局そのあとなんとなくその女の子のことを嫌いになってしまって連絡先を消したので、その子の『ヒミズ』と『プラネテス』の感想を聞くことも、『ヒミズ』と『プラネテス』が返ってくる機会も失われてしまった。借りパクというより俺の貸し逃げという意味不明な行動になってしまった。嫌いになった理由はいろいろあるけど、その子のせいというよりは静岡県という場所がよくなかった。ものすごく遠くて電車に3時間くらい乗らないといけないし往復の電車賃が5千円くらいかかる。あと途中バスに乗らないといけなくて、そのバスも両替のプレッシャーでお釣り取り忘れたりして、バスが苦手な俺はもう凹みにへこんだ。元カノの家は電車で2時間くらいでそれでもかなり嫌だったのに、元カノよりかわいくない女の子に会うために3時間かけるのがバカバカしくなったという理由もある。1回目に会った時はそこそこ楽しかったのに2回目に会うと「ここはちょっと」という点がちらほらと見つかって、やりきれん。こうやって理由を挙げているとかなり身勝手だけど、3時間の電車移動というのは人を身勝手にさせるものなのだ。どうあがいても「3時間かけてわざわざ会ってる」みたいな気持ちになってしまうので、俺はどうもそういう距離的なものに人間関係を制限されるタイプらしい。

 

 tinderでやたら出会いを探していたのも、元カノに別れ際にボロクソ言われて、「俺のことを受け入れてくれる女の子なんてこの地球上にいやしないんだ」とかいう変な被害妄想に憑りつかれたためで、そのせいでさみしくてどうしようもなかったけど、少なくとも静岡県にいる女の子とは懇ろになれたので、もうどうでもいいかという気持ち。これも賢者タイムの一種なのだろうか。あとtinderとは別に会って見た目褒めてくれた人がいて、それもかなりうれしかったから自信を取り戻せた感がある。社交辞令かもしれないけど、褒められたらすぐいい気になります。ニートと懇ろになってくれる女の子なんて冥王星の果てにいるかと思ったら、電車で3時間のところにいました。それでも俺にとっては遠すぎて会いに行くのめんどくさいから困ってしまう。

 

 こうやって女の子に会って漫画を貸してそのまま疎遠になって…を繰り返し続けたらいつの日か本棚が空っぽになるのではなかろうか。ポール・オースターの『ムーン・パレス』に主人公がお金に困って自分の部屋の本を片っ端から売っていく場面があったけど、俺は漫画を貸し続けて異性とのつながりも途絶えていって、踏んだり蹴ったりという感じです。

 

 岡崎京子の『リバーズ・エッジ』が最近映画化されて、「観たいなあ」みたいなことをたまたま連絡とってた女の子に言ったら「原作読んでみたい」と言われて「じゃあ貸すよ」ってまた俺の漫画貸したがり癖がさく裂した。勧めた漫画がどんなに面白かろうが、傑作だろうがそれはすべてその作品を作りだした漫画家のおかげなので、貸したやつがいい気になったりするのはお門違いなのだけど、こればかりはやめられない。もしかしたら「こんな面白い漫画を知ってるなんて…かっこいい」と思われるかもしれない。その可能性が1%でもある限り、貸さないわけにはいかんでしょうが。

 

 まだ出会ってないけど、これから出会うかもしれない女の子を感動させるために5巻以内に完結するおしゃれな漫画を俺はこれからも探し続ける。男に貸す漫画は大体伊藤悠の『皇国の守護者』を貸しとけばいい。だってアレめっちゃおもしろいから。なんだかんだいって5巻以内に完結する漫画で一番面白いの『皇国の守護者』か松本大洋の『ピンポン』説ない? あると思います。そういえばこの前急に冨樫の『レベルE』めちゃくちゃ読みたくなって、部屋探したけどどこにもなくてストレスがやばい。多分これは男の友達に貸したっきり帰ってきてないパターン。誰に貸したのか覚えてないけどはやく返してほしい。

 

 

レベルE (Vol.1) (ジャンプ・コミックス)

レベルE (Vol.1) (ジャンプ・コミックス)

 

 

元カノぼくが長期ニートしてたらどんな顔するだろう

  それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

文学のふるさと坂口安吾

 

 先日、23歳の誕生日を迎えた。と同時に青春が死んだ。

 もう成人しているのに甘ったれたことを言うと、大人になった実感がこの23歳という年齢に達しても微塵も感じられない。サラリーマンやっていた3ヶ月足らずもまるで何かの悪い夢のようであった。去年の6月に辞めてもう8ヶ月か。そりゃ忘れるよな。大人と子どもをどこで線引きするか、という境目は人それぞれだと思いますが、22歳から23歳になるのは俺にとって単純にひとつ歳をとっただけでなくて、大きな意味を持って迫ってくる。それは、「22歳まではなんとなく大学生ノリが許容される」という勝手な思い込みによるもので、大学四年生に迎えた22歳の青春の魔法が終わりをつげてしまったようなその悲しみに打ちひしがれて家でふるえています。勝手にふるえてろ

 

 誕生日の前の日、高校の時の友人と塚田農場で飲んだ。俺のほかに会社員と教員と院生の合計四人で。塚田農場は地鶏の炭焼きとかチキン南蛮がおいしいけどちょっと高い居酒屋さんで、大学生時代はあんまいったことなかったけど、社会人ふたりは「よし、塚田農場いくか」ってすんなり入っていて経済力の盤石さを見せつけられた気がした。いつも俺が行ってるのは鳥貴族とか一軒目酒場とか大学生が行ってるようなそんなところだったので、久しぶりの塚田農場はテンションが上がった。

 

 社会人なのに会社員と教員はわざわざ仕事終わりに俺の最寄りの駅まで来てくれた。「お前ニートなら交通費かかるのいやだろ」つって。女の子に会いに行くために往復5千円かけて静岡県いくようなニートなので、別に数百円程度は大丈夫だったけど、仕事終わりに家と逆方向の電車に乗って来てくれる友情にぶっちゃけ胸が熱くなった。こんな社会から全力でドロップアウトしたニートに会うためにわざわざ家と逆方向の電車に乗ってくれる人間なんて神かマザーテレサガンジーかって話。最高のホーミーに感謝。

 

 教員と会社員の二人が主に話すのは仕事の愚痴だった。新卒で入ってもう一年近く経ちちょっとずつ職場に馴染んでいて面白い上司の話や先輩の話を楽しげに語る。4月には後輩もできる。どうやらなんとか立派な社会人をやっているようだった。「おまえ最近なにやってんの」「家で本読んだり、漫画読んだり…」あゝなんだか俺ものすごくダメ人間みたいだ。まあ、ダメ人間なんだけどさ。院生はそろそろ就活が始まってめんどくさいというような話をしていた。理系の院生なので研究を活かした分野で働きたいといっていた。頑張ってほしいと思った。就活で大失敗した俺は就活のことなんて思い出すだけで心に深刻なダメージが残るね。特に協調性が終わっているのでグループディスカッションにメンタルをボコボコにされたの本当嫌だったな。負け犬の遠吠えかもしれないけど、俺はああいうところでテキパキ振る舞える人といっしょに働きたくないんだと思う。でも企業が欲しいのはそういう人材なんだろうな。

 

 みんな、いつの間にか「ちゃんとした大人」になっていた。

高校の時はあんなにバカなことしていたのに、どこでこんな社会性を身に着けたのだろう。摩訶不思議。高校のときイケてなくてあんま羽目外してなかった俺はなんで社会性を身に着けられなかったのだろう。彼らの「日々のめんどくささ」と戦っている強さが目をそむけたくなるくらいにまぶしかった。

 

なあ、お前と飲むときはいつも白木屋だな。一番最初、お前と飲んだときからそうだったよな。

俺が貧乏浪人生で、お前が月20万稼ぐフリーターだったとき、おごってもらったのが白木屋だったな。 「俺は、毎晩こういうところで飲み歩いてるぜ。金が余ってしょーがねーから」お前はそういって笑ってたっけな。

俺が大学出て入社して初任給22万だったとき、お前は月30万稼ぐんだって胸を張っていたよな。 「毎晩残業で休みもないけど、金がすごいんだ」「バイトの後輩どもにこうして奢ってやって、言うこと聞かせるんだ」 「社長の息子も、バイトまとめている俺に頭上がらないんだぜ」そういうことを目を輝かせて語っていたのも、白木屋だったな。

あれから十年たって今、こうして、たまにお前と飲むときもやっぱり白木屋だ。 ここ何年か、こういう安い居酒屋に行くのはお前と一緒のときだけだ。 別に安い店が悪いというわけじゃないが、ここの酒は色付の汚水みたいなもんだ。 油の悪い、不衛生な料理は、毒を食っているような気がしてならない。

なあ、別に女が居る店でなくたっていい。もう少し金を出せば、こんな残飯でなくって、 本物の酒と食べ物を出す店をいくらでも知っているはずの年齢じゃないのか、俺たちは?

でも、今のお前を見ると、お前がポケットから取り出すくしゃくしゃの千円札三枚を見ると、 俺はどうしても「もっといい店行こうぜ」って言えなくなるんだ。 お前が前のバイトクビになったの聞いたよ。お前が体壊したのも知ってたよ。

新しく入ったバイト先で、一回りも歳の違う、20代の若いフリーターの中に混じって、 使えない粗大ゴミ扱いされて、それでも必死に卑屈になってバイト続けているのもわかってる。

だけど、もういいだろ。十年前と同じ白木屋で、十年前と同じ、努力もしない夢を語らないでくれ。 そんなのは、隣の席で浮かれているガキどもだけに許されるなぐさめなんだよ。

 同級生たちに大きく引き離されていて、背中も見えないくらい置いていかれてしまったことをその飲み会で確認できた。もう白木屋のコピペを笑えない。というと劣等感爆発してるクソつまらない会みたいに思われるかもしれないけど、普通に楽しかった。塚田農場は名刺のようなポイントカードがあって通うとだんだんと昇進していくというシステムでなんかやっていて前行ったときに貰った塚田農場のカードは定期入れに入れっぱなしでぐちゃぐちゃになっていたけど、昇進すると昇進祝いにおつまみがもらえるらしいので、そのぐちゃぐちゃになったポイントカードを出した。課長になった。ニラと卵黄がトッピングされたピリ辛の冷ややっこのようなものをもらった。

 

 地元で飲む最大のメリットは、終電を気にしなくていいこと。そのことが嬉しくて調子にのってわけのわからない焼酎ばっか飲んでしまった。本当はあまり好きではないけど、焼酎が一番体に良いらしいので、なるべく焼酎を飲むようにしている。焼酎のせいで飲み会で何を話してたか全然覚えていない。「前会った時よりも痩せた」って言われた。うれしかったけど、「お金ないから食べ物あんま買えなくて」って言ったら「戦後かよ」とか言われた気がする。人と話すとき、結構緊張したりするほうだから、お酒飲んでどうでもいいことをベラベラ喋りたくなるようなあの感じが好き。

 

 飲み会が終わったのが日付をまたいで9分後くらいだったので、店を出て「俺実は今日で23歳になったんだ」と言ったら「オールしようぜ」ってなったけど、家の布団で寝たかったので3人を駅まで見送って電車で帰した。

 

 目黒シネマで正社員を募集してて、応募しようと思って履歴書を書いたけど、志望動機の作文を書けなくて結局断念した。「名画座で働けば映画いっぱい観れるかな」という浅くて薄っぺらい志望理由しか俺は持ち合わせていなかった。あと目黒シネマのTwitterアカウントが「応募者がたくさんいて、連絡にお時間いただいております」みたいなことつぶやいていて「そんなたくさんのひとからニートが選ばれるわけないな」と思ってしまったのもある。しばらくしたあとに目黒シネマのホームページを見たら正社員募集の告知がなくなっていて誰か受かったんだなあという気持ちになった。そんだけ。

 

俺のこういう非生産的生活はものすごく貴重な人生の一ページを無為に消費することで成立してる。受験生のとき塾の先生が「浪人すると人生で稼ぐ金の中から年収が一年分減る」みたいなことを言っていた。でも、ニート生活はお金で換算できない何かも確実に失われている気がしてならない。彼女にも愛想つかされたりだとか。

 

 彼女は別れ際に「お前は一生バイトしてろ」みたいに言っていて、そんなん言われたら「じゃ逆にニートやってやるよ」みたいな対抗心でここまでズルズル生きてきたけど、どうなんだ。そろそろスラムダンクの三井ばりにカムバックかますべきなのかもしれない。

 

 いろいろやらなくてはいけないこともある。ブログにあんま書いてないけど、公務員の専門学校に通っている。あまり勉強していない。仕事やめたあとに再就職したくなさ過ぎて彼女に倣って軽い気持ちで入ったから、フラれた瞬間にモチベーションが地に落ちた。こればかりは本当に自分でもクズだと思う。親にも申し訳が立たん。

 

「アリとキリギリス」でいうなら完全なるキリギリス側の人間。未来のことなんてどうでもいいと思って刹那的に生きていたらこういう状況。23歳になったら急に気持ちが落ち込んでしまった。こんなネガティブなことをブログにメソメソ書いている時点でダメなんでしょうけど。

僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だとうわさした。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わずうめいた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。

 どうも、くいちがう。

『斜陽』 太宰治
 

 

 

イソップえほん (10) アリとキリギリス

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